小野先生の一期一会地球旅㉜「アジア精神薄弱会議参加旅行にお伴して」

一期一会 地球旅 32

アジア精神薄弱会議参加旅行にお伴して (1)インドにて

76年にワシントンDCで開催されたIASSMD(国際精神薄弱研究協会)の会議ご参加のお手伝いをしたことでアジアでも精神薄弱関係分野の福祉や教育、行政、医療など幅広い視点からの会議が行われていることを知った。最初が東京、次いでマニラ、次はインドのバンガロールだそうで、それも翌77年に開催されるとのことであった。以前にも書いたが、研究など学術関係の団体が日本精神薄弱研究協会(当時の呼称、以下同様)、他に福祉関係施設等の集まりが日本精神薄弱者愛護協会、家族や育成団体の組織が全日本精神薄弱者育成会、さらに特殊教育に関する全日本特殊教育研究連盟(全特連)の4団体があり、これら4団体により社団法人 日本精神薄弱者福祉連盟が構成されていた。国際的にみると、アジア精神薄弱者福祉連盟(Asian Federation for the Mentally Retarded)があり、これには各国から関係団体が加盟していたと思う。 行政、福祉や教育、医療など実際にはそれぞれの国の国情により、この分野の対応には様々な形があった。それだけに、各国関係者が情報を交換し、学び合うことはとても重要なことであったであろう。 当時
(70年代後半)主要なメンバー国は、日本、韓国、台湾、香港、フィリピン、タイ、マレーシア、シンガポール、インド、インドネシア、パキスタンなどであった思う。中国やラオス、カンボジアは遠い存在であったし、ベトナムはまだ戦後の混乱期であったと思う。

ワシントンから戻り、早々に福祉連盟をお訪ねしたところ、旅行企画はM学院大学のY教授が担当しておられ、すでに大手のJ社と中規模のFK社が競っていることを知った。 筆者はこれまでの実績やIASSMD会議で仰いだ先生方のご紹介を携えてY教授にお会いした。営業活動に於いては自薦他薦、背景も様々であり、旅行会社を決定するについてはご苦労もあったらしい。お考えでは、今回は参加者数もかなり多くなると思われ、会議開催地であるバンガロールなるところは日本人にはなじみも薄いと思うので3つのコースを作りたい、すなわち、①会議直行、②ネパール経由、③スリランカ経由を提案された。加えて、会議では開会式、基調講演など主要な部分は添乗員が通訳してほしい、との条件付きであった。 具体的には、ハンディトーキーを持参し、団員はイヤホーンでこれを聴きとる方法、つまり簡易同時通訳に近い形であろうか。通訳者は、当時も勿論専門職であり、増して、同時通訳者が添乗業務などを行うことなど普通はまずあり得ないと思う。さらに同時通訳の設備も必要であるし、通訳者は2名以上でなければ仕事を受けていただけないと聞いている。従って、その経費は極めて高額になるので、それは条件的にも無理であり、英語の達者な人を添乗させて通訳もさせてほしい、という理由であった
。旅行会社にとっては厳しい条件であった。 医療や福祉関係視察で通訳は少しずつ慣れてきていたし、会場では事前に発表者の原稿も入手できるとのことであったので、頑張れば何とかなるであろうと厚かましく、そしていささか不遜な考えであることを承知しながら仕事をいただきたいと懇請した。結果的には、J社がスリランカ経由、FK社がネパール経由、そしてわが社は会議直行コース、とはいっても往路は首都ニューデリー経由、帰途は香港経由の旅行業務を賜った。

 

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こうして、77年11月4日に羽田を発ち、ニューデリーへ向かった。4年前に海外教育事情視察団で訪れたことがあったので今回は不安もさほどなかった。加えて、前年にワシントンでご指導をいただいた研究協会の山口先生や高橋先生、さらには社会福祉調査会の海外研修でご案内した精神薄弱関係施設の方もおられ、いわばお馴染みの方が少しずつ増えてきており親しく接してくださるようになっていたので添乗することが一層楽しくなってきていた。ニューデリーでは、ガンジーの墓に詣でた。インドが長いこと英国の支配下にあり、加えてこの国の複雑な社会構造の中でこの国を独立へ導いた偉大な人物に深い尊敬の思いを抱いて手を合わせたことを思い出す。

 

chikyutabi32-2会議開催地バンガロールは、南インドのカルナターカ州の州都であり、重工業や航空機産業などが盛んであり、一方ではインドでも教育水準の高い都市として知られていたが、当時はまだ日本から訪れる 人は多分あまりいなかったと思う。今では、ハイテク産業、特にIT関係に於いては世界的にも名だたる存在であり、インドのシリコンバレーと言われて発展してきたそうである。人口は850万を超え、この国では3番目の大都市となっているとか。しかしながら、1977年当時はそれほど大きな都市ではなく、南インド内陸部の中心地えあろうと我々は捉えていた。赤茶色の大地と緑濃い林や公園、州最高裁の壮麗な建物が印象的であったことを覚えている。

 

空港からホテルへは会議事務局手配のバスが準備された。日本からの参加者は3つのコースに分かれてインド入りしているがバンガロールには同じ日に到着したので、夕方日本側事務局の皆さんと各コースの添乗員などが顔を合わせて会議の出席や諸々についての打ち合わせが行われた。参加者数は、直行コースとネパールコースが各17名、スリランカが20名、別参加4名、計58名であった。会議事務局との打ち合わせ、出席登録と資料の受け取りは不慣れな参加者も多かったので、我々添乗員はその案内や支援で多忙であったが、筆者は前年のIASSMD 会議等での経験が役立った。会議全体の参加者の顔ぶれを見ると、圧倒的にインド国内からの参加者が多く、ニューデリーやはるか遠くから鉄道を乗り継いで数日かけてやってきたという人も多かった。また、アジア各国ということから言えば、スリランカ、タイ、マレーシア、シンガポール、香港、台湾、フィリピンなどで韓国からはまだ数名であったような気がする。もう一つの特徴は、アジア各国に所属する団員として、英国、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ドイツなどの施設関係者や研究者が含まれていたことである。多くは、発展途上国支援などでアジア各国の精神薄弱者福祉や教育などの普及に多くのところで欧米の専門家や宗教関係者が関わっていたことが次第に分かってきた。日本からもZ神父がおられ、暖かいお人柄には誰もが親しみを抱いていた。

 

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久しぶりに訪れたインドであったが、会議開始以前からすでにあの機関銃のような早口の英語についていくのはとにかく大変であった。少しはインド英語には慣れていた筈であるのに、今回はハンディトーキーを使いながら、会議の主要な部分の通訳までしなければならない。私は、今回の旅行業務の営業担当であり、そのまま添乗員でもあるが、J社もFK社も営業担当とは違う添乗員が来ており、英語は達者らしいが、様々な仕事ぶりを見ているとなんとなくビジネスライクであったようだ。裏方の雑務も結局は多くを私が引き受ける形になり、期間中は忙しく飛び回っていた。肝心の通訳は、というと最初のうちの数分はある程度似たような挨拶から始まるので付いていけるのだが、そのうち、お手上げとなり、時々要約しては分かる範囲で説明するような形をとらざるを得なかった。というよりは、ほとんど付いていけなかったというのが本音であった。他社の二人も似たようなありさまで顔を見合わせては苦笑いしていた。当日の登壇者は、前日までに事務局に発表内容を書いた原稿または抜粋を提出することが義務付けられていたが、それに従った登壇者はほんのわずかであり、それも日本人が多かった。結局、5日間の会議期間中、何とか原稿や資料を集めてきては主要部分を要約してメモ書きを配布することでお許し願った。そして、次回からはやはりプロを雇っていただきたい、とお願いせざるを得なかった。

 

chikyutabi32-4 期間中の一日、オプショナルツアーとしてマイソールへ出かけた。バンガロールからは140㎞位離れているがタクシーを何台か連ね、ツアーのメンバーも各国からの参加者が加わっており国際色豊かであった。田舎道を走り、途中休憩しながら4時間くらいかかったであろうか美しい町であった。1947年まではマイソール王国の首都であり、カルナターカ州の文化上の首都とも言われているとのこと。細かいことは覚えていないが、この地域を治めていた藩王はいうところの
マハラジャであろうか、そのマイソール宮殿は壮麗な建物であった。お昼はこの宮殿のレストランでいただいたと思うが、高原のさわやかな風が吹き抜けて心地よかった。

午後は小高い丘の上まで上がりそこからマイソールの町とどこまでも広がる広大な風景を眺めた。今も覚えているのは丘陵地一帯を覆う樹林であった。多くはSandalwoodと呼ばれているとのことで和名は「白檀」である。町の土産物店に行くと扇子やアクセサリーなどが所狭しに並べられ、馥郁たる香りが漂っていた。案内書をみるとマイソールのSanchikyutabi32-5dalwoodは世界的に有名らしくしかも最高級だとか。ガイドが自慢していたのは無理からぬことと今になって納得している。 私は、白檀は買わなかったが、木製のモザイク風の工芸品である額絵を買ってきた。村の女性が水を汲み、その脇で子供がそれを見ている素朴な風景が描かれており、女たちがつけているアクセサリーだけが白く浮き上がっている。かなりの値段であったと思うが、店員に言わせると、この白いのは象牙であり、だから値段が高いのだとか? かなり値切ったと思うが結局は根負けして買い求めてきた。40年近くたった今も自室の壁にかけてある。時々眺めてはあのマイソールの丘から眺めた悠久の大地、雄大な風景が懐かしく思い出される。

会議は日が進むにつれて各国の参加者ともごく自然に挨拶をかわし、さらにいろいろな話もする。筆者はアジアの多くの都市はじめ欧米豪各国も訪問していたので一層親しみを抱いてくれる人も多かった。民間のこのような国際会議では基調講演や様々な発表を聴くだけでなchikyutabi32-6く、このように各国の関係者とも親しくなることで友情を覚え、他国の文化や風習を理解していくことに大きな意義があることがわかってきた。そして、次回はクアラルンプールでぜひまたお会いしましょう、と閉会式ではあちこちで握手し、挨拶する風景が見られた。筆者は、欧米など先進国における国際会議や視察などもさることながら、アジア各国など近隣諸国の精神薄弱者福祉や国際交流ということについては一層興味深さをおぼえるようになった。それだけに、なおのことこれからもアジア会議の旅行業務をいただきたいと願いつつ、この旅行の添乗を終えた。

 

(資料 写真 上から順に  撮影は、額絵以外はすべて1977年当時)

マハトマ・ガンジーの墓(ニューデリー)

バンガロール風景(カルナターカ州 最高裁)

バンガロール市内にて、小学生の列を見かけた。

マイソールの藩王宮殿

木製モザイクの額絵 (77年購入)

第3回アジア精神薄弱会議 閉会セレモニーの懇親会

(2014/11/25)

小野 鎭