小野先生の一期一会地球旅㉝「アジア精神薄弱会議参加旅行にお伴して」

一期一会 地球旅 33

アジア精神薄弱会議出席旅行の添乗の思い出 その2 大失態!

 

77年のバンガロールで開かれた第3回アジア会議出席旅行は3社で担当し、開会あいさつや基調講演など主要部分を添乗員が通訳することになっていた。しかしながら、筆者はもとより、他の2社の添乗員もあまり用を為さず、旅行を企画された日本精神薄弱者福祉連盟様(現 公益社団法人 日本発達障害連盟)の評価は芳しくなかったと思う。

閉会式の挨拶で、次はクアラルンプールで会いましょう、と締めくくられたのでインドから戻ってからは2年後の会議へ向けて営業活動に力を入れた。他の旅行会社の動きも探ってみたが、事務局からはあまり話を聞くことはできなかった。当時、競合していたJ社の営業担当は草薙威一郎氏であった。虎の門支店に所属していると聞いていたが、同支店は視察関係団体の取り扱いに力を入れておられたようである。 同社とは、特に福祉関係ではあちこちで競合していたので、彼とは顔を合わせることが多かった。大手の会社は、営業、予約、手配、添乗などそれぞれ機能分化していることが多かった。しかしながら、わが社のように規模の小さな会社はそれ自体が何らかの特長を生かして営業に力を入れており、多くは営業から添乗まで一人か二人で担当することが多かった。草薙氏とは、後年多くの付き合いが出てきたが、そのことについては改めて書かせていただきたい。

image001結局、2年後(79年)のクアラルンプールはわが社が頂戴することになり、準備を進めていった。この時は、24名のご参加があった。この年は、先述したIASSMD(国際精神薄弱研究協会)会議がイスラエルのエルサレムで行われたので、中には一年に二度お付き合いさせていただく方もおられ、「いつもありがとうございます、今回もよろしくお願いします。」とご挨拶させていただく方が徐々に増えていった。今回は、同時通訳者も同行ということになり、前回のように厳しい思いをすることは無くなった。そこで、分科会でお手伝いしたり、裏方として飛び回ったり、期間中の施設見学などで一層積極的に動き回った。

 

前回に続いて他国からの参加者の中には顔なじみの方もかなりあり、施設見学や郊外へのオプショナルツアー、懇親会などで積極的に会話をすることも多かった。中でも、タイ(であったと思う)から参加しておられるドイツ人、トム・ムッタース博士は、筆者がドイツに行くことが多いと知って、いずれドイツに行くことがあれば連絡してほしいとの言葉をいただいた。このことは、やがて数年のちに本物になり、さらにそれが大きくなっていった。このことは改めて書くこととして予定している。

image003それ以後もアジア会議は香港、ジャカルタ、台北、シンガポール、カラチ、ソウル、コロンボと都合9回お世話させていただいた。ほかに、バンコクがあり旅行業務はもちろん社でお世話させていただいたが添乗業務は他の社員が担当した。他にも2年おきの国際精神薄弱研究会議(途中から国際知的障害研究協会 世界会議と改称)始め発達障害関係の会議や視察旅行のお取り扱いを下命いただいていたので90年代中ごろまで20年近くにわたって毎年2~3回はこの分野の添乗で出かけていた。それゆえ、知的・発達障害関係への興味が深まっていき、その後の重度障がいのある方の旅行へとつながっていったと思う。

クアラルンプールには、同時通訳者2名が同行されたが、その後も福祉連盟では、同じ通訳者に行っていただきたいとお願いしておられた。そのうちの一人が、松岡祐子氏。今も同時通訳者としても活躍しておられるとホームページで紹介されているが、一方では、あのベストセラー「ハリーポッター」シリーズの日本版を発行しておられる静山社の会長として著名な方である。

会議の流れは回を重ねるごとに発表内容などが地域福祉の在り方や、教育、医療面のアプローチなど次第に専門度が深まっていき、発表者数も多くなっていったと記憶しているが、参加国としてベトナムも加わってきたことが印象的であった。また、90年代前半までは依然として中国からの参加者はあまり見なかったような気がする。一方、国際会議の開催準備や現場での進め方については各国のお国ぶりと言おうか特徴があったことも印象深かった。現代では、アジア各国の成長は世界をリードする勢いであり、何事においてもスピードや慎重さ、そして確実さが求められていると思うのでまさに隔世の感があるが、当時のことを思うといかにものんびりといった様子であった。91年はパキスタンのカラチであったが、時間的観念ということから言えばとても悠長な運び方であった。

 

image005通常は、会議開催前日までに現地入りして夕方には会議事務局に挨拶に行き、現地出席登録のチェックや会議資料を受け取り、全体の様子を探ったうえでお客様に情報をお伝えして開会式に備えるがカラチではそうはいかなかった。会議事務局の担当者は、開会当日の朝、資料を抱えてポーターらしい若者たちが段ボールを運び込み、それから受付の机を並べ、その上に書類を並べ始めた。間もなく、パキスタン国内組織の代表者が会場に到着、スタッフに指示して受付業務が開始されたのは、開会時間の30分くらい前であっただろうか。日本のグループは、事務局を通じて参加者に要領よく情報が伝わり、資料も配布されたが、各国の参加者はそれぞれ個々に並び、名簿と照らし合わせながら資料を受け取っていくので時間もかかる。開会時間を過ぎても会場内はまだ着席する人はまばらであった。会場入り口には、カラチ市内の小学校の生徒が数十人列を作って並んでいた。どうやら開会式で教育大臣(?)の挨拶に続いて参加者への歓迎の歌か何かの余興があるらしくそれに備えて1時間以上も前から待っているのであった。その大臣が登壇したのは予定されていた時間をかなり過ぎてからのことであった。 しかしながら、パキスタンの関係者は代表はじめ事務局スタッフも慌てる様子はなかった。どうやら、昔、日本でも地方によっては、〇〇時間というのがあって、ある程度の時間が遅くなってもそれはごく普通であって驚くには当たらない・・・そんなところかもしれなかった。

その後、95年にスリランカのコロンボで開催された時もあらかじめ示されていた時間よりも遅いことはたくさんあった。また、発表内容や様々な情報が予告なしに変更されることはめずらしくなかった。政府間会議であるとか、ビジネスの世界ではもっと厳密な形でことが進められると思う。しかし、国によっては、時間の観念や物事の進め方が極めて慎重な日本人的センスとはかなりかけ離れたところがあることを認識したのもこのような経験があったからである。国際協力や発展途上国支援などで現地に赴く人たちが多くなってきた時代であったが、日本的緻密さが現地ではおよそ通じず、先ずは現地の生活習慣やものの考え方などに馴染むことが最初の仕事である、とはよく聞いていた話であった。

お陰様で、幾度もアジア会議出席旅行のお世話をさせていただき、ご好評いただいていたが、すべてが順風満帆であったわけではない。実は、取り返しのつかない失敗をしたことがある。最後に恐縮であるが、恥を忍んで書かせていただこう。

image00787年はシンガポールで会議が開催された。会場はシャングリラホテルであったと思う。オーチャード通りにあり、滞在はなかなか気分が良かった。会議の合間をぬって、お客様全員の航空券をもって隣接するビルにあるシンガポール航空(SQ)のカウンターに行って帰り便の予約の再確認(Reconfirm)を頼んだ。当時は、24時間以上滞在する場合は前途便の再確認をすることが必要であった。問題はそこで起きた。というよりはそこで発覚した。今と違って、予約は通常電話で確認し、それに基づいて航空券を発券するという流れであり、手書きから少しずつ機械で発行されるようになりつつある頃であった。わが社はF社と提携して、航空券の発行はこの会社に依頼していた。この時は、旅行行程は2コースあり、一つは会議参加単純往復、もう一つはマレーシアのペナンを回るコースであった。前者のシンガポールから東京への帰国便は、会議終了翌々日の午前0時10分(今風に言えば、翌日の24時10分)と承知していた。この便は約1年前の予約段階では、会議終了翌日の23時10分発であった。しかしながら、その後この便は1時間遅くなり、結果的には会議終了翌々日の午前0時10分になるとの連絡を受けていた。ところが、肝心の搭乗日が変更されておらず、予約が確保されていたのは会議終了翌日の午前0時10分であることがわかった。つまり、滞在が1日短縮されてしまうということである。

今では考えられないお粗末なミスであるが、とにかく予定通りの便に席を確保してもらいたい、とSQには強硬に申し入れた。しかしながら、当該便は満席であり、変更希望は叶えられなかった。お客様からは大変なお叱りを受けて会議終了後にひと休みされる時間もなく、その日の深夜便で帰国いただかざるを得なかった。原因は、わが社と代理店、そして航空会社の予約係いずれかの間の連絡と確認ミスであるが結局水掛け論であった。福祉連盟事務局からは、参加者のお世話や会議関係の裏方としての仕事振りは評価するが、肝心の旅行業務におけるこのようなミスは絶対に許せないと厳しく叱責された。一言の申し開きも出来ず、それぞれのお客様には日程短縮に伴う経費はお返ししたが、ひたすらお詫びするのみであった。今の時代であれば、旅程管理責任を問われる内容であるが、30年近く経った今も胃が痛くなる思いの大失態であった。

 

(資料 上から順に)

第4回アジア会議出席 (1979年 クアラルンプール)

夕食会後の懇親会では日本グループはみんなで合唱 (1981年 香港)

カラチ市内にて (1991年)

シンガポールでの施設見学(1987年)

 

(2014/11/30)

小野 鎭