2014.12.24 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅㊱「海外医療事情視察団に添乗して(その1)」

一期一会 地球旅 36

海外医療事情視察団に添乗して (その1) 山口寛人先生のこと

  12月11日の日経新聞(夕刊)のコラム「あすへの話題」で地域医療機能推進機構(JCHO)の理事長 尾身茂氏が、「JCHO(ジェイコー)とは一体なんぞや」ということについて書いておられた。氏の説明では、Japan Community Healthcare Organization の略であり、日本語は『地域医療機能推進機構』。 英語で医療は『メディカル』であるのに、なぜ『ヘルスケア』なのか、ということについても併せて説明されていた。「これまでは『健康な人は地域に、病気の人は病院に』だった。これからは心身の問題を抱える『大勢の人』が地域に住むため、急性期医療に限らず、リハビリ、介護、在宅医療など多様なニーズに対応しなくてはならない。全国に57あった社会保険、厚生年金、船員保険の病院群が、本年4月から独立行政法人として新たに出発。従来の“医療”の枠を超えた幅の広いシームレスなヘルスケアを提供することが使命となるのでJCHOとした」とあった。地域住民にとって「安心の地域医療を支える」ことがJCHOの理念であり、そのためには、異なる医療機関同士、医療と介護、専門医と総合診療医の連係が鍵をにぎる、と結ばれている。   実は、このJCHOの下に組み込まれた医療機関を傘下に置いた全国社会保険協会連合会(通称 全社連)、厚生団、船員保険会は大切なお客様であった。特に、全社連様は71年から02年まで延べ32年間にわたってご愛顧いただいていたので昔風な言い方をすれば、足を向けては寝られない存在であった。また、個人的にも社会保険中央総合病院は患者として、いざというときは診てもらっているので一層関心の深い存在でもある。   さて、全社連関係の視察団など旅行業務の受注は、70年(昭和45年)秋ごろであった。69年に自治体病院関係視察団で初の世界一周を経験していたが、その翌年、上司から今度は社会保険病院グループの視察団の仕事をいただけそうなので、企画段階からかかわるようにと指示があった。現在、東京都新宿区百人町に、今年4月にJCHOの医療施設の一つとして山手メディカルセンターとして再出発された社会保険中央総合病院(通称 社保中)が当時は新大久保にあり、院長である山口寛人先生を訪ねた。正直なところ当時は、自治体病院と社会保険病院の違いはよくわからなかった。山口先生は社団法人全国社会保険協会連合会の常務理事であるが、社保中の院長も兼務しておられた。氏は、欧米の医療事情に明るいだけ
でなく、歴史や文化などでも大変博学な方であった。旅行計画立案の骨子として考えられる参加者の職種や大まかな人数、旅行日数、訪問国や都市または地域、医療事情視察のための訪問病院や関係団体の訪問を第一とすることと告げられた。 併せて、歴史と文化を知ることもその国の医療事情を知るうえで大切な社会背景だと付け加えられて、これらの条件に沿って海外視察の計画を立ててほしいとのお申し出をいただいた。 提示された国名はまだしも都市名や地域名、考えられる経路を示され、他に旅行会社としてより効果的と思われるところを提示してほしい、と補足された。多分一時間余りのお話しだったかと思うが、頭の中には世界地図や百科事典が入っているのではないか、と思うほどであった。後でお聞きしたところ、シャーロック・ホームズを英語版で読まれる方であり、さらには書の達人でもあった。旅行計画立案の条件をお示しいただいて帰社したところ、社では筆者が全体の業務を担当するように、と命じられた。 ロンドン、パリ、ローマ(当時、業界では、ロン・パリ・ローマは欧州旅行の核であり、この3都市を中心に配置することが定番であった)を置き、デンマーク、ドイツ各地やウィーン、スイスの景勝地、アメリカへわたってニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、ホノルルなどを配した。 この時代は医学をドイツ語で学んだ方も多く、ドイツやオーストリア(ウィーン)を入れることも重要であったし、アメリカの医療はシカゴに全米病院協会や医師会もあり、これを加えることが多かった。全体で10か所くらいの医療施設や病院/医療/保健関係の組織などを含めた。これに市内見学などを配して日程案を組立て、旅行代金をお見積りして旅行計画書として提示した。山口先生からはいくつかの指摘や質問をいただいて全体を調整して旅行計画がまとまった。その上で、具体的な準備にとりかかった。最大の業務の一つが、医療関係施設等専門視察の手配であった。以前にも書いたが、旅行会社が主催者に代わって、視察訪問依頼状を作成するのが通例であった。英文タイプで依頼状を作成し、主催団体の代表者のサインをいただいて航空便で発送し、先方からの返事を待つ。 お国柄もあり、ほどなく返事をいただけることもあれば、容易には返事をいただけないところもある。 従って、旅行手配には、通常、半年以上かかることも珍しくなかった。   徐々に準備が整い、院長、副院長、事務長、内科・外科など診療部門の部長職、看護部長、薬剤・放射線・検査などの技師関係、栄養士など18名のメンバーは、一つの病院ができそうな顔ぶれであった。こうして71年(昭和46年)9月22日~10月24日までの33日間の「欧米医療事情視察団」が派遣され、筆者が添乗した。69年に続いて2回目の世界一周であった。そして、奇しくも33日間というのも同じであった。もしかすると病院関係団体としての対抗意識があったのかもしれない(?)。   初めて乗ったときからの航空便の全搭乗記録だけでなく、添乗した旅行の携行旅程(当時は、最終旅程と呼んでいた)
を最初のころから保存している。但し、1966年の初の添乗から約5年分は不幸にして紛失しているので手元に残っているのは、まさにこの全社連 欧米医療事情視察団のそれが一番古いものである。この冊子には、旅行日程はもちろん、視察先施設名、ホテルリスト、参加者名簿(氏名、所属施設名と役職名、住所、電話番号)、旅行中の注意事項、通貨換算表などが記載されている。特に、参加者名簿が含まれていることは今日では個人情報保護の立場から公表されることは通常はないが、この時代、このような視察団では、至極当たり前のことであった。というわけで、この冊子を綴じた報告集は、筆者にとっては何物にも代えがたい貴重な財産の一つである。   幸い、この視察団の旅行内容と添乗はご好評をいただくことができた。旅行が終わって数か月したころには、山口先生から来年のことを相談したいと連絡をいただいた。第1回目は初めてのことであり、いわば比較的平板な日程であり、視察内容もそれほど深く掘り下げたものではなかった。そして、来年はもう少し特色を持たせたいとして、英国の国民保健事業(National Health Services)と地域医療計画、東欧を含めること、デンマークの老人医療や福祉、ドイツの他にオランダ、フランスなど、米国では全米病院協会なども含めることなどを骨子とすることが提示された。さらには、移動手段は航空便だけでなく、鉄道や長距離バスを含めてもっとバラエティに富ませることなども示唆され、旅行期間は初夏とすることになった。これは、組織や病院側の諸事情もあったのであろう。72年は、前年よりも10名多く29名という大人数であった。  
こうして年ごとに視察内容や旅行行程も次第に注文が厳しくなっていき、ありきたりな内容ではご了承いただけなくなっていった。他の医療や福祉などの視察旅行もお取扱いしていたのでそこからの情報も利用するなど知恵を絞り、より充実した旅行計画を立案するように心がけた。回を重ねるごとに評判をいただけるようになったが、視察団としても公的に報告書を発行されることになった。手元には、昭和51年(76年)に始まってかなりの冊数がある。加えて、平成元年(89年)からは看護事情視察団が派遣されるようになったのでそれを合わせると数十冊になる。社としてはずっと一貫して旅行業務を受注したが社員を派遣することにして、筆者は営業担当責任者として機能した。そして、より視察内容が複雑かつ難度の高い看護関係に添乗兼通訳を兼ねて関わることが多くなっていった。   医療関係視察先の選定にあたっては、諸外国の医療事情を学ぶと共に、主要国の病院名鑑、医療
福祉関係など団体の名簿、また米国やカナダの電話帳(Yellow Page)を失敬してきては活用させていただいた。これらの名簿はA4またはB5版で厚さ5㎝以上のものもありそれ自体かなりの重さであるのでスーツケースは毎回2個持参していた。当然のことながら超過手荷物料を常に気にしながらの旅でもあった。インターネットなどは出現しておらず、諸外国を実際に訪れていること自体が羨ましがられていた。そして、医療や福祉事情に通じていること、病院等の資料を保有していること、加えて通訳もやっていることなどが重宝がられた。爾来30年余りにわたって、全社連病院始め看護、保健施設などの視察団のお世話をさせていただいてきたので、様々な出来事や思い出がある。それらについてこれから数回書かせていただこうと思う。
              (資料 上から順に) 山口寛人氏 (氏の書 洗心語録より) 昭和46年度(1971年)全国社会保険協会連合会 海外医療事情視察団 最終旅程 海外医療事情視察団&看護事情視察団 報告書群 ドイツ病院名鑑(オーストリア・スイス含む) 米国病院協会 名簿 (2014/12/23) 小野 鎭