2015.01.13 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅㊳「海外医療事情視察団に添乗して(その3)」

一期一会 地球旅 38 海外医療事情視察団に添乗して  その3 こぼれ話(1)

今日まで、230回余の海外添乗をしてきたが、お蔭さまで多くはお気に入りいただきながら旅行を終えることができた。とは申せ、毎回が順風満帆であったというわけではない。むしろ、毎回何かが起きたといってもいいかもしれない。予期せぬトラブルに巻き込まれことも数知れず、一方では自らの力不足や不手際、準備不足でトラブったこともある。 その都度、必死に情報をかき集め、現地手配会社に協力を求めたり、泣きついたり、怒鳴り込んだり、一刻も早く原状復帰を目指して文字通り全知全能を使った、と言っても過言ではない。お客様の手前では、平静を装いながら、心の中では動転していた・・・ そんなことが限りないほどであった。お客様にご迷惑をおかけするとか、本来の旅行目的を達成できないことが起きるとこれは本人の過失というだけでなく、社としての責任問題に及ぶこともある。毎回が必死であった。小さなトラブルやハプニングは枚挙にいとまがない。 全社連様からは、海外医療事情視察団の仕事を71年(昭和46年)に初めていただいてから爾来2002年まで32年間にわたって幾種類かの視察団のお世話をさせていただいた。とりわけ、Doctor Tourは最初のころは33日間という長期間であり、旅行先もOff Beaten Trackつまり、定食型の有名都市などだけでなく、地方都市やはるか田舎、日本人にはあまり馴染みのないところも旅程に含まれることが多かった。当時は、今のように豊富な旅行情報があるわけでもなく、手探りで集めたヒントやFodor、Michelinなどのガイドブック、航空会社からの情報などを携えて長途に臨んだものであった。 団員各位には、各国の医療事情を学んでいただくことは勿論、歴史・文化や社会事情などを実際に観ていただくことも大切な視察目的であった。毎回、慎重に準備して旅を楽しんでいただけるように努めた。 それでも、思わぬハプニングは起きるもの、今となっては懐かしい思い出となっているものや噴飯ものであるが、その中からいくつか書いてみたい。 1)病院のエレベーターが止まった! 第2回目のDoctor Tourは、72年5月31日に羽田を発ち、欧州各国を回って20日目に最後の訪問地アムステルダムに着き、翌朝、この国の代表的な医療施設の一つである自由大学病院(現VU University Medical Center Amsterdam)を訪れた。アムステルダム市の南郊にあり、干拓地に造られた新しい町アムステルフェーン、その向こうにはスキポール空港へと続く広大な緑濃い地域に、これも広いキャンパスの一角に病院はあった。多分、10階建てくらいの本館であったと思う。
最初に、病院概要を聞いてから、診療部門や手術室などの視察に移り、いくつかのグループに分かれて上層階へ動いた。人数が多かったので、一般用以外に業務用のエレベーターも使った。ここで先生方は驚かれた。エレベーターには、ドアも無ければこれを呼ぶボタンもない。箱状の昇降機が常に動いており、目の前に来たらその箱にひょいと乗り込むというスタイルである。乗降時に停止するわけではないので、二人のときは並んで乗らないと危険である。ドイツなどで幾度か経験していたので改めて驚くことは無かったが、先生方は初めて目にされる代物であったと思う。パーテルノステル(Paternoster)という形式だそうで、欧州では今もオフィスビルや大学などで時々見られるらしい。この時は、筆者が最初に乗り、残りは病院側の案内者が乗り込みを指導してくれて逐次所定の階で降りていただくようにリードした。 ほとんどの団員がうまく降りることができたが、のこり数人になったとき、どういうわけか途中でこのエレベーターが止まった。ということは各階すべてが同じ状態で止まったことになる。それぞれの箱が階の途中で止まっており、乗客(?)は出るに出られず、しばらく待ってみたが復旧する気配が無い。病院側の案内者同士で連絡を取り合い、結局、5~60㎝あいている隙間から二人は顔を出して外側から手を引っ張って這い出してもらった。各階でも同じことをやって引っ張り出したらしい。 病院側では、このようなことは時々起り得るのかあまり慌てた様子は無かったが我々は肝をつぶす思いであった。こちらのお二人のうち、一人は当時の理事長T様であり、お気の毒なことであった。病院側からは、早速院長らしき人が出てきて苦笑いしながらお詫びされたことを覚えている。その後、予定通り院内見学をしたが流石にエレベーターは使わなかった。アムステルダムからバリ経由ニューヨークへ渡り、アメリカ国内で数か所を見学して無事羽田に戻ったのは7月2日であった。このグループではその後も会う度にあの恐怖のエレベーター騒ぎが話題になったらしい。 2)汽車を動かした! 翌年はスコットランドのエディンバラを訪れた。当時も今も英国は4つの国から成る連合王国である。それでも、医療はNHS(英国国民保健事業)の一部を成し、ロシアン保健管区の中核施設であるウェスタン総合病院を
訪問した。エディンバラ大学医学部の教育病院の一つでもある高次医療施設である。エディンバラは、北のアテネと呼ばれる文化都市である一方、エディンバラ城やホリルード宮殿などの見どころも豊富な観光都市でもある。しかし、当時はそれほど多くの観光客もない静かな古都であった。その後も幾度か訪れたがあまり変わらなかった。ところが2012年に久しぶりに訪れたところ1995年に世界遺産に登録されたこともあってかおびただしい観光客に驚いた。また、昨年はスコットランド独立に関する国民投票が行われるなど北の美しいこの町を改めて懐かしく思いだしている。 ところで、73年のときは、病院見学の後、ハイランド地方へ足を伸ばして美しい湖水やこの地域の風景を堪能した。ロッホ・ローモンドでは、年代物の蒸気船で湖上遊覧を楽しんだ。ロッホとはLakeつまり、湖というスコットランド語だとか。そして、この地方の最高峰はベン・ネビス1343m、ベン=山だそうである。ほとんど人家らしいものも見当たらないハイランド(高地=丘陵地帯)であるが、谷間には美しいせせらぎが流れており、レンガ建ての建物と煙突がある。そして、レンガ塀にはGlen・・・といった名前の看板などがある。NHKの朝ドラ「マッサン」でお馴染みのスコッチ・ウィスキーの蒸留所、日本流に言えば造り酒屋ということになるのであろうか。GlenfiddichやGlenmorangieは日本でもよく知られているモルト・ウィスキーである。 Glenとは、谷間のことを指している。
さて、ハイランドを周遊して古城ホテルにも泊まり、この地方の古い伝統と文化を味わった後、Pitlochryなる小さな町の郊外で夕食を済ませて町外れにある駅に着いた。時刻は夜9時過ぎ、夕日が長い影を作っていた。高緯度にあるこの地方の日暮れは10時過ぎくらいである。駅舎がポツンとあり、ホームが長く伸びてはいるが、上下2本だけのトラックしかなく、なにやら頼りないほど小さな駅で、バスから降りた33人のメンバーと荷物以外には、数人のお客らしい姿のみであった。駅員が一人のほかにポーターらしい業務もやってくれる用務員が一人いた。手押しの長い荷車にスーツケースを山のように積み、それらしい号車番号の位置で列車の到着を待った。本当に列車は止まるのだろうか?と不安にさえなる。手配会社から予めもらっている団体乗車券を見ると、たしかにピトロクリー発21:43とある。大ブリテン島のはるか北、ネッシーで有名なネス湖の北端にあるインヴァネス始発後いくつかの駅とこの駅、さらにもう一か所寄ったのち、ロンドンまで直行する夜行寝台列車である。 やがて、列車が入って来て、我々以外の数名のお客は早々と乗ってしまった。ところで、驚いたのは、
予め聞いていた号車番号とその位置はプラットホームの端から反対側の端っこともいうべきところであった。10両近い連結であり、お客はともかく、荷物があるので簡単には動けない! それこそ血相を変えて駅員に文句を言ったが今更どうしようもない。メンバーにお願いしてスーツケースを持って向こうまで行くか、それともとりあえず目の前の号車に乗り込んで発車後、車内を移動するか? とにかく、こちらの責任ではないのだから、駅員に何とかして欲しい、と怒鳴ったところ駅員も車掌と機関士に何やら交渉らしきことをやっていたようである。結果的には、列車はゆっくり動いて我々の目の前で号車が止まった。 前方のデッキから荷物を積み込み、後方からメンバーが乗り込んであっという間に乗り終えた。窓からは何事かと乗客たちが不思議そうな顔をして見ていたり、大笑いしながら拍手しているお客など・・・  この時ばかりは、おおらかな英国人と機関士の計らいに大いに感謝したものである。こうして15分くらい遅れただろうか、夜行寝台列車は夜の闇を走り抜けてロンドンのキングス・クロス駅に翌朝7:35に予定通り到着した。 ところで、今回この文を書くにあたり最近のThomas Cook Timetableを開いてみると、今もインヴァネス発20:46 ピトロクリー発 22:43 そしてロンドン、今はキングス・クロス駅と隣り合わせたユーストン着 7:47としてこの夜行寝台が載っている。 もう一つの話(近況) : かつて文豪夏目漱石は英国に留学したとき、「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快な二年なり(文学論)と著わしているそうであるが、帰国する前の2週間くらいをスコットランドは、このピトロクリーで過ごして、ひと時の平安を得たらしい。多胡吉郎の「スコットランドの漱石」(文藝春秋社刊)には、漱石がこの地をなぜ訪れたのか、ここで何を見、何を感じ、やがて「草枕」を書くに至ったのはこの時の見聞や経験が元になっているのではないか、とある。 このことを知っていれば、あの小さな町ピトロクリーをもっと興味を持ってみたことであろう。もし、もう一度ハイランドを訪れる機会があればぜひ、「草枕」を読み、往きの機内で「スコットランドの漱石」をもう一度読み返してみたい。 (資料 上から順に) パーテルノステル式 エレベーターの図(資料借用) ウェスタン総合病院(エディンバラ) スコットランドの地図 (バス旅行に地図は離せない!) ピトロクリー駅(資料借用 但し、これは1982年撮影とあり、グループより9年後) (2015/1/12) 小野 鎭