小野先生の一期一会地球旅㊶「海外医療事情視察団に添乗して(その6)」

一期一会 地球旅 41

海外医療事情視察団に添乗して、その6 終わりに・・・

このところ海外医療事情視察団に添乗して、ということで5回ほど書いてきたがもう一度だけ書かせていただきたい。

1)ナポリで受けた大歓迎

欧州での医療事情視察は、英独、北欧などが主であり、次いで仏和オーストリア、スイスなどが多かった。イタリアは勿論コースには含まれていたが、古代ローマであるとか、文化と歴史面での見学が多かった。 それでもローマ、ミラノでの医療事情視察のほか、ナポリを訪れたこともある。昭和52年(1977年)であった。南回りでギリシャのアテネに入り、そこから海路ブリンディシに向い、上陸してイタリア南部の中心であるナポリに至った。古代ローマ時代の軍用道路の終点のひとつがブリンディシであると聞いたのもこの時であったような気がする。ナポリは、当時はどうしてもマフィアということばが先に立ち、少々不安な気持ちを抱いておられたお客様もあったが、実際にはとにかく底抜けに明るく、大歓迎を受けた。その数年前に南イタリアで発生した地震で大きな被害がでたとき、日本からも義援金を送ったりしたことも一つの理由であったかもしれない。

4ここではナポリ大学の教育病院でもある3つの医療施設を訪れた。サントボーノ病院(Ospedale Santobono)は小児専門施設、当時はイタリアを代表する病院の一つでもあったらしい。次いで、カルダレーリ病院(Ospedale Cardarelli)は南イタリアでは最大規模の高次施設であった。もう一つモナルディ病院(Ospedale Monaldi)、以前はサナトリウムであり、当時は呼吸器や循環器系に主力を置いた総合病院であった。どういうルートでこの時の医療施設訪問のアポを得たのかは今となっては覚えていないが三つの大型施設を訪問している。ほかに看護関係では看護学校を訪問された団員もおられた。

3この団では、最初の医療事情視察であったので団員はいずれも張り切って見学されていたが、青い空と世界三大美港の一つと言われるナポリ湾の美しい風景を横目に眺めながら6月末のこの日、さすがに汗だくであった。加えて、お昼はカンパーニア州の病院協会の会長以下10名を交えての会食、午後の病院見学後はナポリ市長から歓迎の挨拶を受け、夕食はナポリの名所卵城(Castel dell’Ovo)のすぐ前にあるレストランでの豪華な海鮮料理へのご招待! ナポリ民謡の流しも加わり、2時間余りのまさに夢のようなひと時であった。イタリアは世界有数の観光国、陽気なナポリの人々の大歓迎はこの旅行を通じてもっとも印象に残ったイベントであった。この地は、幾度も訪れているがほとんどがローマから日帰りのナポリ・ポンペイツアー、車窓から1時間くらい眺めて引き上げることが多いので、宿泊して味わうこの町の魅力は格別である。2012年に久しぶりに訪れてその卵城の前にあるホテルに2泊した。遥かな昔、大歓迎を受けてナポリ湾に沈む夕日を浴びたあの時のことが懐かしく思い出された。今回、この思い出を書くにあたり、3つの病院のホームページを開いてみたところ今もそれぞれ南イタリアの代表的な施設として機能していることが紹介されていた。

2)ロンドンはやはり鬼門?

ロンドンは幾度も訪れて楽しい思い出も多いが、失敗も多いことを先に述べた。ついでといっては申し訳ないが、もう一つお恥ずかしい大きなミスをやらかしている。前回書いた昭和54年(1979年)、ロンドンを発ってローマに向かう朝のことである。Mayfair地区と言えば、高級ホテルやアメリカ大使館などのある一等地、Europa Hotelでバスには荷物も積み込み、お客様も全員揃われたので空港へ向かった。車中では、これから向かうローマでの予定やご注意事項を案内し、懐中物には特にお気をつけください、などと案内をした。それらのことを話しているうちに、ポケットの中にカギがることに気付いた。そして、身体中の力が抜けて行く感じがした。ホテルの貸金庫(Safety Box)の鍵であった。

この時は、後輩のS社員と2名体制の添乗であり、グループ全体の航空券などは彼が持っていたが、旅行中の食事代やチップなど現金払いの経費(米ドルのT/C=旅行者小切手)を筆者が管理して金庫に預けてあった。その朝、チェックアウト時にこれを取り出すことにしていたが、折悪しく雨が降り出した。慌てて荷物を積み込み、お客様をバスに案内しているうちに貴重品を取り出すことをすっかり忘れてしまっていた。旅券は、すでに取り出していたが、旅行中の32人分の所要経費であり、ロンドンは最初の訪問地であった。携行金額は数千ドルあったはずで、当時は、まだクレジットカードは社としては使っていなかった。多くの旅行会社は、予め手配会社に旅行中の食事は事前手配して前払いしてあることが多いが、自分たちは各地の名物料理や行き慣れた店などを直手配して現地払いすることが多かった。そうすることで、同じ金額を払うにしても店のサービスは良くなり、メニューもお客様の好みやバラエティに富んだものをお出しできることで好評をいただいていた。そんな理由もあって小切手とはいえ大金を携行することが多かった。

とにかく、大変な忘れ物をしたことを思い出して、すっかり気が動転してしまったが、時間の制約もあり、バスを戻すわけにもいかない。窮余の一策としてS君に戻ってもらうことにして、空港でお客様に事情を説明し、お詫びした。穴があったら入りたいとはあのような時のことを言うのかもしれない。お客様は苦笑されていた。当時は、日本航空の南回り便があり、それでローマに向かうことになっていたが、空港で事情を説明して、彼の便を夕方の可能な便に変更してもらうことの承認を得た。そして、ホテルのマネジャーに電話した。自分の代わりに忘れ物を回収しにいくので許可してほしいと頼んでこれも了解を取り付けた。こうして、予定通りローマへ向かった。 ローマに着いたのは、お昼すぎであったが、彼が夕方の便でこちらへ向かうことの連絡も入っていた。その夜、夕食を終えた後であったと思うが、彼は無事ホテルに到着、感謝の思いでいっぱいであった。2人で添乗したことがほんとにラッキーであったとつくづく思ったことであった。やはり、この頃のロンドンは自分にとっては鬼門であったかもしれない。

3)スイスの病院は多言語!

2昭和56年(1981年)は、スイスでチューリヒのトリエムリ病院(Stadtspital Triemli)を訪問した。 チューリヒは同名の湖から流れ出すリマト川の両岸に広がったスイス第一の都市であるが、晴れた日には遠く白雪をいただくアルプスと町を取り囲む緑の丘陵地に囲まれた美しい町である。人口約40万、市内中心部にはチューリヒ州立大学の附属病院があるが、トリエムリはそれに次ぐ規模で630床の総合病院。町の南西端の丘の中腹にある17階建ての高次医療施設であった。スイスの病院や学校の特徴の一つは、この施設に限らず、戦争や大災害など緊急事態に備えた設備が地下や敷地内に整えられていることであろう。地下室のコンクリート壁は、驚くほど厚く造られている。この病院も400床の予備ベッドが置かれているが、平時は看護師の宿舎などとして使われているとのことであった。

スイスの病院では、ナースなど従業員として外国人が多いのがもう一つの特徴であろう。ゲルマン、ラテン、アングロサクソン、インド系などいろいろな顔が見える。院内での掲示や用語はドイツ語が一般的であるが、それに加えて仏、伊、英、西語など様々な言葉も飛び交っていた。団員のお一人が、この病院で使われている言語はどのくらいありますか?と質問されたところ、多分18か国語くらいになるが職員への連絡は、主要な数か国語が使われているとのことであった。数日前の日経新聞に「医出る国」として、わが国の医療の国際化の必要性について書かれていた。東京の中央区にある聖路加病院が5か国語で対応、愛知県では、「あいち医療通訳システム」が立ち上げられて国際化に対応するための仕組みが作られているとのこと。2020年のオリンピック・パラリンピックを待つまでもなく、観光立国を標榜する以上、世界的にも高い医療の質を誇るだけでなく、言語の面での国際化もさらに緊要の課題であろう。

4)お蔭さまで・・・

1Doctor Tourを長年担当させていただいたことで、日本中のお医者さんなどとお会いできたこと、20年以上もの間、欧米豪などのたくさんの医療施設などを見学して多くの情報と知識を得たこと、それらのその間の動きなどを知ることも出来た。お蔭さまで、このようなことを紹介することにより業務の範囲も広がっていった。医療事情だけでなく、病院建築という立場から、カナダのオタワ総合病院、米国の北カロライナ州にあるデューク大学病院などにも大きな興味をいただいこともあって、病院建築関係の視察団の仕事も受注出来た。ほかに、衛生検査技師会の仕事もいただけるようになった。

訪問看護や介護保険につながる視察・研修団も大きな広がりであった。社会保険関係、高齢者サービスなども高齢社会が進行するにつれて重要さを加え、多くの視察団を取り扱わせていただいた。当時は、まだパソコンはもちろん、インターネットも無かった。諸外国の医療施設などを数多く見学して、その資料なども持ち帰っていたこと、さらに毎回目を白黒させ、冷や汗を流しながら通訳もしていたことで単に見学者を案内し、同行するだけでなく、もう一歩踏み込んで海外の医療事情を知ったことは当時としては、かなり重宝がられたと自負している。看護分野はその中でももう一つ深くかかわらせていただいた視察団であり、これは次回から書かせていただきたい。

5)最後に、

全社連の常務理事として長年ご指導をいただいていた千田通先生は、昭和58年(1983

年)の視察団にご自身でも参加されたので、約1ヶ月間お供させていただいた。ある時、役員室にお邪魔して業務打ち合わせが終わったあと、雑談でその頃ときどき感じていた腹部の違和感のことについてお話ししたところ、十二指腸潰瘍の症状に似ているとのことであった。早速、東京の新大久保にある社保中(社会保険中央総合病院)のT医師に診てもらったところやはりそうであった。投薬で治まったが、それからも1,2年おきに、それも2~3月ごろに再発し、毎回、お世話になってきた。当時は、季節的にストレスが一番嵩じていたのであろう。 社団法人 全国社会保険協会連合会は昨年4月から独立行政法人 地域医療機能推進機構(JCHO)へと改組され、その傘下の社保中は、「東京山手メディカルセンター」として再出発された。幸い、近頃はストレスが減ったのか、十二指腸潰瘍の症状は感じていないが、またお世話になることがあるかもしれない。高次医療施設として、地域の健康増進・疾病予防のための拠点としても益々発展していただきたいと願っている。

(資料 上から順に)

カルダレッリ病院(イタリア・ナポリ・資料借用)

卵城の前から望むナポリ湾とヴェスヴィオ山 (2012年9月撮影)

トゥリエムリ病院(スイス・チューリヒ)

デューク大学病院(米国北カロライナ州・ラーレイ・ダーハム)

 

                               (2015/1/31)

小野 鎭