2015.04.28 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅53「児童福祉海外研修団に添乗して その5」

一期一会 地球旅 53

児童福祉海外研修団に添乗して  その5  思い出いろいろ③

92年の研修団は、スイスの後、3番目の研修国であるオーストリアを訪れた。ここでは首都ウィーンと周辺にあるS.O.S.子どもの村(Save our Souls Kinderdorf)の活動などを視察することが主な目的であった。S.O.S.子どもの村は、親の離婚や虐待、戦争や自然災害、疫病など様々な理由で家族と共に生活できない子供たちを養護している。創始者はオーストリア人Hermann Gmeiner、第二次大戦で彼自身も従軍したが終戦後たくさんの戦災孤児が生じたことに心を痛めて、1949年にチロル州イムストに自ら子供たちを保護し住まわせるための施設を作ったのがその始まりであったそうである。その後、この法人はオーストリア各地に児童養護施設を設置し、次第にその活動と理念は諸外国へも広まっていった。今日では、全世界に460ヵ所以上の施設と様々なサービスを行っている世界的なNGO組織になっている。 研修団は、ウィーン市内と郊外にある子どもの村の大小いくつかのタイプの施設、治療教育センター、小舎制の教護ホームなどのほかに行政機関、公立施設、母子ホームなど様々な施設を見学した。この国の地理的な位置あるいは国情からオーストリア人だけでなく、東欧系はじめ様々な民族の子どもたちが居たことも特徴であった。当時、日本では、数十人の子どもたちを養護している施設も多かったのでオーストリアで大型施設なども見学できたことは、日本との比較をするうえからも興味深い訪問であったと事務局のF氏が報告されている。
3日間の研修を終え、最終日は1日フリーということで団員各氏はそれぞれ自由行動を楽しまれた。筆者もお暇をいただき、念願のバーデンの町を訪ねた。ウィーンは幾度も訪れていたが、バーデンは未踏であった。ウィーン南駅から鉄道で30分ほどの地にあり、バーデンはその名が示す通り古来温泉地として知られていた。帝都ウィーンから近いこともあり、皇帝もお気に入り、19世紀末には王侯貴族の社交の場としても賑わっていたとある。ワルツ王ヨハン・シュトラウスやヨーゼフ・ランナーの胸像があるほか、ベートーヴェンはこの地が好きであったらしく1804年から25年までほとんど毎年かなりの期間滞在していたそうだ。特に、1821年から23年までは小さなパン屋の二階を借りて住み、ここで第9交響曲や荘厳ミサ曲を作曲した。(オーストリア政府観光局 資料より) 建物の一階入り口にはBeethoven Schauraume(ベートーヴェン展示館)とあり、大作曲家の遺品やゆかりの品などが展示されており、夢中で見入ったことを思い出す。因みに、現地ではこの建物は、Haus der Neunten(第九の家)とも呼ばれているそうである。
筆者は、89年に設立された重度障がい者を核とする「私たちは心で歌う目で歌う合唱団」に入団していた。 そして90年4月に東京文化会館で第九交響曲「響け、歓喜の歌!」のコンサートが行われた。団員は、単に歓喜の歌を歌うだけでなく、この偉大なる作曲家と歓喜の歌について学び、聴覚の障害がありながらも数々の名曲を残した大作曲家への思いは並々ならぬものがあった。この合唱団では、93年5月にベートーヴェンの生誕地であるドイツのボンで現地市民と共に第九を歌おうと演奏会を行うことになっており、私はその準備を一手に引き受けていた。それだけに第九交響曲が書き上げられたであろうこの家を訪ねることができたことはひとしお感慨深いものがあった。
研修団は、翌日帰国の途に着かれたが大久保団長は、「全員が何の事故もなく元気で帰国し、これからの交流にさらなるものを期待し、スイスの“地上の楽園”高峰ティトゥリスに想いを馳せ、さらに海外研修19回を記念して『ティトゥリスへ19(行く)会』を結成した」と述べておられる。あれから22年余りが過ぎたがこの時ご一緒した数名の団員氏とは今も年賀状を交換してい
る。その中のお一人が今年の賀状に、「私達の会は『ティトリスへ行く会』と名付けています。あのメンバーで、小野さんとまたヨーロッパに行きたいです」と書き添えてくださっていた。いつの日か叶えられれば、と願っている。実現されればまさに歓喜! ピンチヒッター 資生堂財団では、研修団のほかに児童福祉施設等の職員の「永年勤続功労」を顕彰しておられ、その方々をハワイ旅行に招待されていた。この旅行も社で担当させていただいていた。昭和58年(83年)は、出発の多分2日前くらいであっただろうか、添乗を予定していた社員が個人的な事情で行けなくなった。慌てて財団に伺って事情を説明し、筆者が代わりに添乗させていただきますのでご容赦いただきたいと懇願した。事務局では大いに当惑されたが、やむを得ないこととしてご理解くださり、了承いただいた。出発当日、空港で団員各位にお詫びして事情を説明した後、ホノルルへ向かい、無事この旅行を終えることができた。今日まで230回余の海外添乗歴があるが他の社員が急病などで行けなくなりピンチヒッターとして出たことが2回ある。そのうちの一つがこのハワイ旅行であった。 花椿会のこと 長年、視察団や研修団などたくさんのグループのお世話をしてきたが、研修や講義などではそれなりの受け入れ手数料あるいは講義料などを求められることも多い。それとは別に先方の担当者や案内者に何らかの記念品や手土産を持参することは洋の東西を問わず良くみられる習わしである。資生堂財団の研修団では事務局としても資生堂製品の小物などを持参されていた。このことにヒントを得て、資生堂のオーデコロン「禅」持参するようにしていた。筆者の場合、特に女性が多くかかわる看護や福祉関係団体が多く、訪問先でも女性が担当されることが多かった。訪問箇所数にもよるが1回の旅行で2~30個は持参していたので、年間ではかなりの個数になる。旅行出発が近づくと銀座のお店に行ってはこれをまとめて購入していた。次第にお店の方にも顔を覚えていただけるようになり、今なら多分メンバーズ・カードなどを持つことであろうが、当時は会員組織の「花椿会」に入会していた。毎回カードにスタンプを押してもらうのが楽しみであった。黒の小瓶に桔梗の絵をあしらった古美術を思わせるような洒落たデザインであり、各地の訪問先でとても喜ばれていた。外国人観光客が急増してきた昨今きっとこの「禅」の愛好者がさらに増えていることであろう。 嬉しいその後 長年、児童福祉海外研修団のお世話をさせていただいて、多くの方々と知り合えたことは 私にとってさらに有難い「人財」である。今も年賀状を交換することでご交誼いただいている方がかなりある。多くの方が研修団での思い出をひとことメモしてくださっており、今もその時々のことを思い出す。最初に事務局としてご指導くださった迫田様はその後、急逝されたが今も言い尽くせぬ恩義を覚えている。また、F様は今もご交誼くださっている。一方、海外でお世話になったのは何といってもメルボルンのセント・ジョンズ少年少女の家の施設長イアン・G・エリス師と事務長フランク・ビア氏である。今も感謝の念に堪えない。当時、並行して担当していた医療事情視察団がオセアニアへ派遣されることになり、師の紹介でロイヤル・メルボルン病院を訪問することができた。エリス師は神学系出身であるが母校であるメルボルン大学医学部の教育病院でもあり、ヴィクトリア州でも代表的な高次医療施設であった。
同じころ、重度の障がい者への地域福祉事業団体からオーストラリアへの旅行について相談を受けていた。 そこで、前述の医療視察団を案内してメルボルンを訪れた時、このことをエリス師に相談したところ二つ返事で協力を約束してくださった。87年のことであったが、この時代、重度の障がい者の方が海外へお出かけになるにはハード面はもとよりソフト面からも多くの様々な困難(バリア)があり、旅行手配は容易ではなかった。様々な準備には1年余を要したが、お蔭さまで88年12月に18人の車いす使用の方とそのご家族や関係者を含む54名という大人数であったがオーストラリア旅行を楽しんでいただくことができた。国内はもとより、現地でも新聞に載るなど画期的な試みであった。しかも、その翌年89年にもう一度ご案内することになった。この旅行の成功に勢いを得て今でいうバリアフリー旅行に力を入れるようになり、やがては自らの生き方にも大きなインパクトを与えることになっていった。今もエリス師やビア氏との出会いを得たことを感謝するとともに、そこに至ることになった資生堂財団様ご主催の児童福祉海外研修団を担当させていただけたことの幸運を改めて感じている。
(資料 上から順に) S.O.S. 子供の村 グループホーム(団員氏提供) ベートーヴェン展示館、この2階で第九交響曲が仕上げられたらしい(筆者撮影) ベートーヴェン展示館にて(筆者撮影 19920919) グリンチンのホイリゲにて研修の打ち上げ(Heurige:ワイン酒場  団員氏提供) エンゲルベルクにて(ティトゥリスへ行く会? 団員氏提供) エリス師への表敬(オーストラリアへの第2回目の旅行 1989年12月) オーストリア連邦 環境青年家庭省 子供は幸福であるべき権利がある。(報告書表紙より)

(2015/04/28)

小 野  鎭