小野先生の一期一会地球旅60「書芸家のお伴をしたこと (1)」

一期一会 地球旅 60

書芸家のお伴をしたこと(1)

社の顧問であった会計事務所の職員から自分が通っている書道教室の先生が中国へ墓参に行きたいとおっしゃっているので相談に乗っていただけないか、との情報を得た。昭和51年頃(76年頃)であったと思う。日本書芸家連盟という新進書芸家の集まりで、組織のトップであるM会長は中国の東北地方(旧満州)からの引揚者であった。自分の親たちの墓があり、昔、世話になっていたひとたちが今も住んでいる新京(現長春)近くの小さな村(小鄙)に行きたいとのことであった。他にもお仲間がおられ、可能であれば、志を共にされる方々も加えてグループで行きたいとか。当時、中国への旅行は業務渡航以外まだ容易ではなく、加えて墓参であるとか知人訪問などの目的によるものは容易には認められていなかった。行けたとしても北京、上海、広州、その他限られた都市であったと思う。

社では、農協組織の業務渡航などをお取り扱いしていた経験から、中国系の会社に紹介してもらい、その代表者の中国人U氏の子息が旅行業務も扱っているとの情報を得て相談した。公的なルートは容易ではなかったが、どういうつながりであろうか何らかの伝手を探せると思う、行きたい地域の正確な名前などを提示するようにと求められた。具体的な地名などは忘れたが、M会長から地名や地域名などを聞いてこれを件のUジュニア(東方旅行社)に伝えて調査を依頼した。しばらく待っていたところ、どういうルートを経たのか、何とか行けるでしょう、との連絡があった。但し、近くまでは行けても目的の場所まで具体的に叶えられるのかどうかは完全な保証はできないとのことであった。100%の確約はできないが多分、何とかなると思う、というのが東方社からの内々の話であった。 このことを、会長にお伝えした。氏はとても喜ばれて、近くまででも行けるならば、あとは何とか現地で交渉してみたい、とのことで旅行準備を進めて行った。 そこで、東方社から中国側の手配会社を介して、北京から長春までの鉄道を含めて現地での宿舎、その先の必要であろうと思われる交通手段や案内なども徐々に整えられていった。添乗員については、 北京に着くとそれから後は、現地側で通しのガイド(服務生)が最後まで随行してくれるので日本からの添乗は不要とのことで、ここでの出番は無かった。正直なところ、中国の旅行事情を知るうえでも添乗して個人的にも様子を探りたいと思っていたが、結局、これは叶えられなかった。

結果的にはM会長以下、ご一行は2週間近い行程において概ね、希望通りの動きができたとして旅行を終えられた。どういうルートで願いがかなえられたのか、それは最後まで教えてもらえなかった。当時から、中国は公式ルートもさることながら、人のつながりが大きくものを言う国であったような気がする。

1その翌年であっただろうか、書芸家連盟の幹事である北村白霞氏から、米国のロサンゼルスで書芸展を開きたいとのご希望をいただいた。南カリフォルニア一帯には日系人が多く在住しており、ロサンゼルスのダウンタウンに隣接した一角にリトル東京と呼ばれる地域があり、そこはさながら日本の都市を思わせるような佇まいであった。日本語で表示された商店や銀行、ホテルなどが連なり、東本願寺別院がある。78年5月の連休明けにM会長はじめ幹事の北村氏ほか総勢30名が訪米され、その集会室をお借りしてここで書芸家連盟の会員と合わせて現地在住の日本人の作品が展示された。現地関係者との交流も行われ、中の一日ラスベガスを経由してグランド・キャニオンを遊覧するというオプショナル・ツアーにもかなりの人数が参加されるなど好評であった。書芸展を鑑賞し、皆様を案内しながら筆を持つことへの関心が高まり、帰国後に団員各氏へのお礼状を書いたがその中に自分も書道への興味が湧いてきました、と書き加えた。

帰国後間もなくして、白霞先生から羅府展(ロサンゼルス展)の成功を経て次は中国、できれば北京であちらの書家と交歓の席書も行いたい、との希望をお聞きした。「席書」とは、参加者相互にそこで揮毫してそれを説明したり、お互いに感想を述べ合うというものであった。連盟の会員の中には、中国側とのコンタクトをお持ちの方もあったので、そのつながりなどをふくめて数年前に協力してくれた東方旅行社に相談した。当時、少しずつ中国への旅行が増えてきており、受け入れはもっぱら中国国際旅行社が一手に引き受けていたが、こちらは、それとは別の中国青年旅行社なる新興の会社を通じているとのことであった。鄧小平系である、などと聞いていたがそれはどういうことかよくわからなかった。何であれ、責任ある仕事をしてもらえればかまわないので北京で「交歓の席書」ができるように取り計らってほしい、と申し入れた。これは、最初の東北地方への墓参よりは、早くに目処がついたらしく、現地での協力が得られそうであるとの情報を得た。

北京では席書のほかに、万里の長城、その後、洛陽で龍門石窟、さらには古都西安を訪ねたい、との希望が加えられた。これらの地では、少しずつ観光客も受け入れられるようになっていたので本格的に日程作成に取りかかった。中国国内での移動は、当時はかなりの距離があっても鉄道の方が確実であるとのことであった。航空便はあるが、時間が不規則で乗り継ぎなどは避けた方が良いと聞いていた。 ホテルは、国際賓館タイプということで外国人の団体などが宿泊できるランクのところが一般的であった。とは言いながらも出発前にホテル名が明かされることは先ず無理であった。携行日程表には、次のような説明が加えられている。「中国の旅行は、中国側の都合により、通常日本出発前には、宿泊ホテル名、旅行行程の詳細は残念ながら知らせて参りません。勝手ながらご理解いただきたくお願い申し上げます。」 中国に着いたらそこで、それなりの宿舎が保障されているので心配しないように、と今考えるとおよそ信じられないような対応が当時の中国側のやり方であった。また、申し合せたように友誼商店での買い物時間が加えられていた。一般的な商店で土産物を買うのではなく、いわば免税店のようなところで買うのが一つのかたちであった。一般物価との違いや外国為替管理など様々な事情があったのだろう。

中国への旅行では、業務渡航はかなりお世話していたが、一般の観光旅行はあまりお取り扱いしたことが無かったので、関係者に聞くとか、東方からの情報などをもとにお客様への旅行説明会も行った。Uジュニアからの旅行のヒントの一つに、女性のお客様には、大きな風呂敷を持参されるように、とのことであった。疑問に思って訳を尋ねてみると、北京や西安など市内見学では、食事時にトイレに行けばいいが、万里の長城や地方に数時間出かけるようなときは、トイレで苦労することがある。ドアが備えられていないこともあるので女性方には大風呂敷で覆いながら交替で用を足すといい、とのことであった。そういえば、以前に香港で公衆トイレ(厠所)にはドアが無く、隣同士で話しをしながら用を足している光景をみたことを思い出した。

2様々な準備を整えて80年8月15日に初めて中国本土への旅に出発した。予定通り、4時間余りで北京に着いたが見るもの聞くもの初めてであり、幅広い長安街に溢れるおびただしい数の自転車が行きかう様子と喧噪、天安門に掲げられた毛沢東の巨大な肖像画と中国人民に呼びかけたスローガンなどテレビや写真でよく見た風景が目の前に広がっていた。そして、ずっと気になっていた北京での宿舎は「前門飯店」なる大型の中級ホテルが確保されていたので、安心した。しかしながら、それ以後の洛陽や西安などはすべて現地側対応であり、向こうに着いてから、ということであった。 以下、初めての中国各地での様子については、次号で紹介させていただきたい。

(資料 上から順に)

日本書芸家連盟ロサンゼルス展訪米団 携行旅程(1978年5月4日~10日)

北京の天安門広場にて(団体を撮影中の筆者 1980年8月)

(2015/6/15)

小 野   鎭