2015.06.23 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅61「書芸家のお伴をしたこと (2)」

一期一会 地球旅 61

書芸家のお伴をしたこと(2)

 
日本書芸家連盟訪中団一行25名は周到な準備をして80年8月15日に出発された。今回は筆者も添乗する機会を得た。とは申せ、書家のお伴であり、交流する相手も書家など関係者、文字はすべて漢字、にわか仕立ての中国語は挨拶と数字くらいしか解せない自分はそれまでの欧米を主とした添乗での経験はほとんど通じず、存在感が薄かったことは否めなかった。
北京では、幸い、交歓の席書が開催されて第一の目的は達成していただくことができた。翌日は万里の長城と明の十三陵の見学であった。生憎、長城では土砂降りの雨に遭い、ずぶぬれになって8月というのにバスの中で震えながら移動した。今ならば高速道路を走って1時間余りで八達嶺まで行けるらしいが当時は、ホテルから3時間近くかかったような気がする。それだけにバスの車窓から見る農村風景は日本が急速に変わっていったことを思うとなにやら素朴なたたずまいが印象的であった。
翌日午後、北京を寝台車(軟車と呼ばれる2等寝台)で発ち800㎞余り、翌朝洛陽に着いた。中国最古の仏教寺院といわれる白馬寺、唐三彩の工房、洛陽での最大の目的であった中国三大石窟の一つ、龍門を訪ねたことなどが懐かしい。さらに今も覚えているのは洛陽から1時間余り走って見に行った黄河であった。中国第二の大河であるが、茶色に濁った幅広い流れはそれまで見てきた川という概念を大きく変えるものであった。 一泊した翌日の夕方、さらに列車で300㎞余り、西安に至った。この町は、シルクロード(絲綢之路)の終点であり、起点であるといわれているだけに心躍る思いであった。玄奘三蔵がインドから持ち帰ったという経典を収めるために建造された大雁の塔を訪れることができたのが嬉しかった。とりわけ印象的であったのは、西安から西へ小一時間離れた咸陽の町の郊外に始皇帝の廟があり、1974年にその近くで秦時代の武人をデザインした土偶や青銅製の武器などが発掘され始めて博物館が作られており、これを訪ねたことであった。世界的な発見といわれた「兵馬俑坑」であるが当時はまだ発掘され始めてそれほど時間もたっておらず、学校の体育館ほどの大きさのバラック建てのような建物の中にたくさんの兵馬俑や武器などが並べられていた。今日では、万里の長城と並んで中国を代表する世界遺産の一つとなっているが当時は展示され始めて間もなくであり、それほど大規模であるとは思いもしなかった。近年、世界遺産を勉強しているが、最初の中国旅行で訪れたほとんどの名所旧跡がその後、世界遺産として登録されており、今も懐かしく思い出される。細かく数えてみると、一度の旅行で8か所も訪れるというぜいたくさでもあった。 ところで、前回の地球旅(60)に書いた中国への旅行用品に「大風呂敷」を持参するとよい、と聞いていた。これについて、女性のお客様にお聞きしたところ、やはり、幾度か役だったとのこと。その「記録写真」は残っていないがメモとしてお伝えしておきたい。 見るもの聞くもの初めての経験ですべてが物珍しくお客様と一緒に夜ごと日ごと見て歩いた10日間であったが、最後に大きな「おまけ」がついてしまった。8 月23日午前西安から中国民航の国内線で北京へ出て乗り換え、その日の夜、帰国する予定であった。ところが、西安では出発時間になっても搭乗アナウンスはおろかほとんど何の連絡もないままひたすら待たされるだけであった。北京での乗換時間は3時間50分が確保されていたが、それは分刻みで短くなっていき、胃がきりきり痛むような思いばかりが募っていった。次第に状況が厳しくなっていき、中国民航の係員にいつ出るのか、どうなっているのか?と幾度尋ねてもほとんど用を為さなかった。そして、空港側では、あなた方が今いる待合室には、○○○の揮毫になる掛け軸もあり、貴賓室並みの部屋だから我慢して待っていてほしい、などとどうでもいいような言い訳ばかりであった。 やっと搭乗案内があったのはお昼過ぎであった。すでに北京での乗換については間に合わないであろうという諦めの気持ちと、それでも日本航空側は大人数の団体だから置いていくはずはあるまい、などの期待を抱いたりした。北京にはそれなりの対応をしておいてもらうよう西安空港の民航側に申し入れておいたが果たしてどこまで通じるのやら? 祈るような気持ちで中国の大地の上を旧式のプロペラ機で飛ぶこと2時間、到着して日本航空側に確認してみたところ、不幸な予想は的中していた。西安からの便の到着時間がわからず、いつまでも待つわけにはいかなかった。というわけで、すでに当該便は飛び立っており、止む無く置いていかれていた。当日は、それ以後の帰国便は無く、空港近くの宿舎を確保してもらうしかなかった。そこで、団員各位に事情を説明し、空港へ戻って翌日の便を探してもらうべく奔走した。日本航空は翌日は運航しておらず、談判して何とか確保してもらったのは他社2つの便に分かれて帰国することであった。こうして、8月24日のパンナム機で大多数のメンバーを送り出した後、残り数名と筆者はその後のイラン航空800便で戻ることができた。当初の搭乗記録ではJL 832となるべきであったが、その欄はIR 800と記録を改めている。無事、全員が何とか帰りつけたのはアラーの神のお蔭?であったのかもしれない。 書芸家連盟様にとって、初の中国旅行は席書や現地の書家との交流、文物の視察や万里の長城、陝西省博物館での書林や兵馬俑坑の見学などもあり、とても内容は充実していたと喜ばれた。帰国便でトラぶったが今となってはそんなこともありましたね、ということかもしれない。続いて、82年には、台湾・香港への旅行があり、台北では故宮博物院なども見学した。書芸家の方々のお伴をしながら中国の古典や文物を間近に見ることは、今まで観光などで漫然と見ていたころより、少し深く見ることを覚えるようになったと思う。香港では、新界地を経て中国本土の深圳につながっている鉄道があり、さらに広州へ伸びていると聞いていたので、次の旅行はぜひここからさらに足を伸ばしてみたいですね、と話したような気がする。 (資料 上から順に) 北京での席書、揮毫は北村白霞氏(1980年8月) 万里の長城 (八達嶺付近から、同上) 龍門石窟にて(同上)

(2015/6/19)

小 野   鎭