2015.06.30 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅62「書芸家のお伴をしたこと (3)」

一期一会 地球旅 62

書芸家のお伴をしたこと(3)

台湾・香港から戻って間もなく白霞書道教室に入塾した。理由はいくつかあった。一つは、子どものころから習字は嫌いではなかった、というより、むしろ好きであった。小学校では、展覧会などで時々入選もしていた。そこで、一つ忘れられない思い出がある。高校まで福岡県の筑豊地方で過ごしたが、小5のとき、訳あって父が勤務していた炭鉱の炭住街に引っ越した。そして、その地域などを含む飯塚市の小学校に転校した。習字の時間があり、偶々その日は、校長先生が授業参観されるということで自分たちの教室に入って来て、まもなく自分のところに立ちどまって覗き込んでおられることに気付いた。そして、「君は、どこから来ているのか?」と質問された。子どもながらにドキドキして、「七浦(ななうら)です」と答えた。すると、校長は、「七浦にも、こんなにうまい子がいるのか」と妙に感心しているらしい様子がうかがえた。子ども心に、無性に悔しくて、腹が立ったことを覚えている。つまり、七浦という住区は長屋型の住まいが並び、そこには石炭を掘る坑夫や単純技術者などが住んでいた。
炭住街は多くがこのスタイルであった。一方、管理職や事務系つまりホワイトカラーの職員は、別の住区があり、建物も戸建てが多くてもっとゆとりのある住まいが多かった。つまり、七浦の子とは、坑夫の息子であり、それにしては?習字がうまいことが驚きだったらしい。結局、その小学校を卒業したが、最後までその学校は好きになれなかった。でも、習字は好きであった。
アメリカに書芸家の皆さんをご案内し、次いで中国や台湾・香港へも御伴したことで書道に触れる機会を得、子どものころ習字が好きであったことを話し、何十年も経た今からでもそれは練習できますか?と聞いてみた。自分としては、書道という言葉を使うほどの腕も無ければ、知識もなかったのでやはり習字の域を出ないと思っていた。そんな自分であったが、白霞師は、快く受け入れてくださり、かつての団員有志が硯(すずり)と初心者用テキストなどをプレゼントしてくださった。もっとも、内心では、書芸家連盟様の仕事をもっとやらせていただきたいという密やかな願いがあったことは否定しない。もう一つ、幸いであったことは、教室が日本橋の三越前近くにあり、わが社があった大手町からは徒歩10数分という便利な位置にあったことである。こうして、書芸家の皆さんとの親交をいただけるようになり、徐々に唐詩や千字文、五體字類等にも親しむようになっていった。当時は、営業と旅行計画書作成に明け暮れる日々、そして年に140~50日も添乗するという多忙な生活であったが、香しい墨の匂いをかぎながら練習していると心が落ち着くことが嬉しかった。 幾度かの旅行を経験して、書芸家の皆さんは中国や台湾で得た発想などをもとにさらにご自身の活動と製作に励まれる一方、お弟子さんの指導にも力を入れておられた。筆者も、週一回、教室に通って習字を続けながら自宅で書いてきた宿題を白霞先生に見てもらい指導していただいていた。この時ばかりは、忙しい日々の中でホッとするひと時であった。少しずつ級も上がり、やがて段位をいただくようになり、作品を出展する勇気も得た。高度成長経済は頂点に達しつつあり、海外旅行は益々盛んになっていた。パッケージツアーが全盛期であったかもしれない。中国への旅行は依然として多くの制約がありながらも、少しずつ訪問受け入れ可能な地域もふえていた。そんな中で書芸家の方々にとっては、水墨画の世界として中国の風景をご覧になりたいとの希望が寄せられるようになり、「桂林山水甲天下」つまり、「桂林の山水は天下第一」に関心が強まっていた。一方では、この話とは別にかなり前からご贔屓いただいていた北海道のお客様から中国へ行きたいというご希望が寄せられていた。 正月休みにあまり寒くないという条件があり、南部の景勝地「桂林と漓江下り」を提案してその話が本格的に進んでいた。そんなわけで、この地域への旅行について本格的に調べていた。
そして、北海道のグループは、86年1月の正月明けに出発。香港~広州を鉄道、そこから空路桂林へ入り2泊、そして再び広州へ戻り水中翼船で香港へ、というコースであった。桂林の景色と漓江の川下りが何といっても最高の楽しみであった。とは言いながら、中国南部であっても1月のその時期は朝夕の冷え込みはかなりのもので、肝心の漓江は水量が少なく、川下りは10数名乗りの小型の遊覧船であった。ちょうど、東京湾の納涼お座敷船のような造作であった。冬枯れの川下りは、凛とした冷気の中でカルスト地形特有の立体的な山々や奇岩奇勝、川沿いにある集落の素朴な風景が印象的であった。両岸はどこもほとんど茶色、時々常緑樹の林もあったが澄んだ青空の下の静かな風景は素晴らしかった。 そんな経験も活かして北村先生と打ち合わせながら桂林への旅行準備を進めた、そして、翌年、87年5月28日に日本書芸家連盟の訪中団は香港へ向けて出発、一泊して翌日、水中翼船で広州入り、そして夕方空路桂林へ飛んだ。この時代になっても依然として中国旅行は現地に着いて初めて宿泊施設や詳細なスケジュールがわかるというやり方であったが、桂林での宿は、榕樹飯店つまりガジュマル・ホテルという名称であった。ところが、桂林とは、桂(カツラ)の林を指しており、中国では、木犀を意味しているそうで確かに市内には金木犀らしい樹木がたくさんあった。秋には、あのかぐわしい香りが町中に漂うのであろうか。5月末~6月上旬は、日本でいうちょうど梅雨時のような気候で桂林では書芸展と席書が行われた。その朝は雨模様であったが少しずつ晴れ間も見えるようになっていった。幸い、翌日は快晴とは言わないまでも青空も見えて念願の漓江下り。 
桂林の町から少し下った船着場で乗船し、前日の雨で川は少し濁っていたが、もわっと湿った空気の中、陽朔まで3時間余りの船上遊覧、船が進むほどに尖ったり、梵鐘を思わせるような山があった。奇岩奇勝、九馬画山、黄布倒影など次々に四字熟語の名所が続き、川沿いには時々小さな集落もあり、鵜飼風景なども見られた。今回は、水量も豊富で両岸の山々や岸辺は緑濃く、蒸し暑さもあったが、船上では川風が心地よかった。その前年に訪れた時の冬枯れの風景とは趣を異にしていた。写真やガイドブックで見ていた風景を目の前にして大いに皆さんには楽しんでいただくことができた。翌日は桂林市内で蘆笛岩鍾乳洞、伏波山、象鼻山などの観光を楽しんだ。そして、広州へ出て一泊、この時の宿泊先はなんと最高級の白天鵞賓館(White Swan Hotel)であった。 その後、鉄道で香港へ出て、今度は昔のようなトラブルに遭うことも無く予定通り帰国することができた。 それ以後、北京には行ったが桂林や漓江下りについては縁が無くなってしまった。今回、この稿を書くにあたり、この地域への観光についてホームページを開いて見るとたくさんの遊覧船があわただしく漓江を上下しており、中国人はもちろん、欧米など外国人観光客が溢れており、30年前ののんびりした風景とはだいぶ様子が違っている。勿論、「桂林山水甲天下」は今も変わっていないとは思うが、もし、再び訪れるとすればやはりあの幽玄の世界をゆったりと眺めたいと思うのはぜいたくであろうか。
こうして、書芸家の皆さんのお伴は桂林が最後になってしまったが、教室には通い続けた。都の美術館で開催された書芸展などにも出展させていただく機会なども得たし、何よりも書を学ぶことを通して手紙の書き方、内外の古典や書への親しみを深めることができた。練習を続けているうちに、連盟からは準師範の免状までいただくことができた。ところが、それから5年余り過ぎたころ、社の自主閉鎖を余儀なくされて教室に通い続けることはあきらめざるを得なくなってしまった。時代は変わり、昨今では年賀状はパソコンで書かれているものが殆どであるが、書芸家の皆さんからは今も墨痕鮮やかな素晴らしい書に絵が添えられた賀状を頂戴している。 白霞師は、当時から中国へ短期留学されたり、中国の書家と「墨のかけ橋」という作品集を出されたり、画家の作品に唐詩や書聖と呼ばれる古典の書などを書いた書画展を開催されるなど多方面で旺盛に活躍しておられた。あれから10数年経つが今も毎年賀状や暑中見舞いを下さる。これを鑑賞しながら、今も変わらぬご厚誼を賜っていることを感謝している。師は、今も著名なお寺で若い僧侶に教えられているほかお元気で過ごしておられる。一方、自分はと言えば、最近では筆ペンでことを済ませる無精者になってしまっているが、住いの近所にある書道教室で小中学生や大人の作品などが展示されているのを見ると、何やら取り残されているような思いが募ってくる。練習時間を作るということは、時間の有無ではなく、その意思が有るかどうかであることを改めて思う日々である。 (資料 上から順に) 筑豊炭田 忠隈炭鉱の炭住街風景 (住んでいた炭住街はこのボタ山のふもとにあった。70年代初期 資料借用) 団員有志から頂戴した硯と初級テキスト 冬枯れの漓江(86年1月) 漓江下り(87年5月) 北村白霞師と(広州にて 87年6月)

(2015/06/28)

小 野  鎭