2015.07.22 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅65「ゆきわりそうの旅 オーストラリア(3)」

一期一会 地球旅 65

ゆきわりそうの旅 オーストラリア(その3)

ゆきわりそうでは、1997年に創立10周年を記念して、「ノーマライゼーションをめざして - 地域福祉研究会ゆきわりそうの10年」を出版された。(中央法規出版)。この中に興味深い記述がたくさんある。旅行に関わることもあり、今回はその中から引用しながらオーストラリア旅行に参加されたあるご一家を紹介させていただきたい。 地域福祉研究会ゆきわりそうの活動の根底には三つの柱からなる理念がうかがえる。 (1)  「全ての枠を外す」 利用の理由、障害の種類、年齢、時間について枠を外してみると生活の中の不自由の谷間を埋めていく上ではそれが当たり前なのだということがわかる。 (2)  「小集団構成」 5名から15名の小さな集団、これなら目と心が通じ合える。非言語的コミュニケーションが通用する。それは、風のようにお互いの心が通じ、仲間意識が育ち、別れたあとでもその人の印象が持続するということである。 (3)  「弱者を生活者としてとらえる」 生活はその人なりの生活到達点であればいいということである。社会の中にある「こうあるべき」は全く当てはめることはない。自分なりの生き方で人生を享受し、達成していけばいい。
その後、時代を経て“3つの柱”のうち、(3)「弱者」は「障害者や高齢者」と改められ、さらに(4)「公的保障で生きて行くシステム作り」が加えられている。当初は、この三つの柱のことをお聞きしていてもよくわからなかったが、オーストラリアへの旅行の準備を進めていく上で、渡航手続、航空会社、現地手配などどれをとってもそれまでの旅行業務よりもっと幅広い準備や対応など回り道をしなければならないこと(旅行業用語では“特別な配慮”)がたくさんあった。その都度、多くの人や組織や行政などに対して相談し、交渉し、食いついていった。多くのところで分かり易く説明されたり、手助けしてもらったことが多いが、悔しい思いをすることも多く、なんでわかってもらえないのだろう、もっと上手に説明しなければ・・・ということの繰り返しであった。次第に航空会社の理解も得られるようになっていったし、エリス師などの強力な支援も得られた。そのような挑戦が次第に「障害者旅行」への協力も得られるようになっていったと思う。考えてみると、そこにはゆきわりそうで掲げておられる三つの柱に沿ったものがたくさんあり、旅行面でもそれを拠り所として積極的に臨んでいったような気がする。
前号でのべたように、ゆきわりそう第一回目の海外旅行「ひまわり号 オーストラリアの旅」には18名の車いす使用者を含む肢体不自由や発達障害のある方などとその家族やスタッフなど総勢52名が参加され、その多くが初めての海外旅行経験者でもあった。皆さんは、不安と緊張、そして興味津々の思いが入り混じっての出発であったが、メルボルンに着いて見上げた澄んだ青空、ユーカリの大木、美しい通りと公園がたくさんある市街、そしてエリス師の暖かい笑顔で歓迎していただき一気に気持ちが和らいでいった。ニューマン・カレッジの学生寮は、部屋のつくりやお風呂は固定式の蛇口など不便なところも多かったが芝生に覆われた広い中庭でのひとときはご機嫌であった。6日間の現地滞在中、市内見学や海岸での昼食、広々とした牧場でのバーベキュー、フィリップス島でのペンギンパレードの見物、古い町バララットへの列車の旅などを楽しまれた。何といっても忘れられないのが参加者それぞれについて話をお聞きすることができたことである。お子さんに障害があるとわかったときの驚きとそれからの苦悩と戦い、ゆきわりそうでの日々、そしてこの旅行に参加するに至った思いなどをしみじみお聞きして深い感動を覚えた。こうして参加されたみなさんの思いを伺うといろいろ苦労はあったがこの旅行を実現できたことがほんとにうれしく、内心では大きな喜びを覚えた。 「ノーマライゼーションをめざして」を引用してあるご一家を紹介させていただこう。 ゆきわりそうの第一回目の旅行は、ゆきわりそう開設の翌年、メルボルンへの旅行であった。ひまわり号をオーストラリアに走らせようと50名余の8日間の旅である。この旅には、まだ高校生であったY君が、ご両親とともに参加した。お母さんは週二回の人工透析を続けていた。メルボルンで透析を受けることができれば参加したい、とのことであった。明治航空サービスの小野さんによる現地との交渉がうまくいき、決心された。お父さんは、上野動物園の動物飼育の専門家である。三人の国外旅行参加は初めてのことだ。 宿泊はメルボルン大学ニューマン・カレッジの寄宿舎である。古い石づくりの建物で、中庭は千坪ぐらいの芝生の庭園であった。ここに6日間滞在する。各室にはシャワールームしかなく、肢体不自由者にとっては固定の蛇口からの入浴はとても難しい。12月というとオーストラリアは夏で、お風呂なしではどうにもならない。3日目、N君のお父さんが二階に浴室があるのを見つけた。ひびが入っていて漏れるけれどお湯を出しっ放しにすれば何とかなる。底をタオルで押さえてそれっとばかり車いすの男女を交替に素早く入浴させた。 入浴騒ぎのあと、中庭にある大きなユーカリの木の根元でチーズとウィスキーで宴を張る。ふと黒いものが木からするすると降りてきてチーズをつかんだかと思うと消えた。一瞬のできごとであった。 「何だ、何だ!」「猿?」「いたち?」 暗い木の上をすかし見ながら大騒ぎである。Y君のお父さんが「多分、オポッサムでしょう」とおっしゃる。翌日、早速街の本屋で動物の絵本を買ってみえた。カンガルーのような有袋動物である。それから夜になると木の下で、ビスケットやいろいろなものを並べてじっと静かにビールなど飲むことにする。オポッサムは、スルスルと毎晩のように現れた。あの夏の夜、オポッサムとの出会いと息をのんで待ったときめきの心は忘れられない。 二日目、Y君のお母さんがお父さんと二人で透析を受けに出かけられる。二人は、大きなユーカリ並木の中をなんと手をつないで歩いているではないか!中庭でビーチボール投げをしていたみんなは、「いいな、いいな」「しーッ」とこの美しい風景に見とれた。後で聞くと二人にとっては決死の思いであったそうだ。初めての国外、見知らぬ医療機関での人工透析、もしかしたら生きては帰れないかもしれない、という緊張で胸が苦しいぐらいだったのだそうだ。夫婦手を握り合っていなければ耐えられないぐらいの気持ちであったのだろう。
そんなことは分かっていても、みんなは透析から帰ってくると一斉に冷かしている。この旅のお二人の様子は今でも私(姥山氏)の胸を時々キューっと幸せにする。翌日の新聞には、Y君の車いすを押す三人一緒の写真が載った。有名人になり、買い物をしていると、みんなから声をかけられてY君大喜びである。お母さんはそれから何年か後、実の弟さんから腎移植の手術に成功、毎年一回出かけるゆきわりそうの旅には必ず三人が寄り添うように参加されていた。 ― 中略 ― オーストラリアの草原を走るメルボルンからバララットへの列車移動の時、生まれて初めて大きなおおきな虹を見た。虹は地平線にある森影をその末尾に映し、大きな半円を描いていた。虹のトンネルだ!と車窓から叫んだ。あの虹は、Y君一家の行く末を予言し、祝福したのかもしれない。 (以上 引用部分 但し、一部書き改めさせていただいていることをお許しください。) Yさんご一家は、この後もゆきわりそうの旅行に幾度も参加された。次回に紹介させていただくが、ゆきわりそうでは、合唱団が結成されて、Y君はお母さんと一緒に入団され、筆者も間もなく加わった。それから四半世紀が過ぎるがいまも時々彼とはとは練習で顔を合わせる。オーストラリアのとき高校生であった彼も今は立派なおじさんである。 (資料 上から順に)

(2015/07/21)

小 野  鎭