小野先生の一期一会地球旅66「ゆきわりそうの旅 響け、歓喜の歌(1)」

一期一会 地球旅 66

ゆきわりそうの旅  響け、歓喜の歌 (その1)

ゆきわりそう第1回目の海外旅行「ひまわり号オーストラリアの旅」は楽しい思い出をいっぱい抱いて皆さんは無事帰国された。旅行業から見れば、それまでにあまり経験しなかった複雑な準備もあったし、特別配慮もたくさん織り込んだ。バリアフリーということばは使われ始めてはいたが当時はまだ一般化されていなかったと思う。まして、ユニバーサルデザインであるとか、ユニバーサルツーリズムなどはおよそ遠い存在であった。「障害者旅行」を手探りで始めたといってもよいであろう。しかしながら、それは突然訪れたのではなく、70年代から20年近く医療や福祉関係者の旅行を数多くお世話させていただき、重度障害がある方への対応についても見聞きしていた経験などが役立ったのであろう。重度障害のある方がグループで海外旅行に出かけられるとマスコミで取り上げられることもあった。それほど珍しかったということであろう。そこで社としても、また個人的にももっと積極的にこの分野の旅行を広めて行きたいと思うようになっていった。ゆきわりそうの旅行以外のいろいろな催しにも参加したり、見学に行くことも多くなった。

幸い、第一回目の旅行が好評裡に終了されたことと、この時に参加されなかった方が次のときはぜひ連れていって欲しいとの声も寄せられていたのであろうか、翌年、第2回目のオーストラリア旅行が実施された。車いす使用の方4名、知的障害のある方などとその家族、スタッフなど総勢23名、そして筆者がお伴した。今回も現地手配はほとんどのことをエリス師にお願いし、一方で航空会社との折衝はスムーズであった。手配全般にわたって、前年の経験と学びは大きかった。当時、協力してくれたQFの社員諸氏とは今も年賀状を交換している。第二回目も12月上旬、旅行期間は2日伸ばして10日間であった。1観光や遊覧だけでなく、聖ジョンズ少年少女の家訪問や養護学校見学なども組み込まれ、研修的な意味合いもあった。
さらには文化交流もあった。ゆきわりそうには大正琴やお琴の教室がある。琴の演奏家であり指導者でもある新山玉峰先生がお母様と参加されており、現地でその演奏を披露された。会場では、美しい琴の音が流れ、現地の人々は興味深そうに聴き入っておられた。ほかにも、この旅行では嬉しいハプニングがあった。スタッフの一人とフィアンセのカメラマンの青年が結婚式を挙げられ、エリス師がお二人の永遠の誓いを結んでくださった。

このように2度目のオーストラリア旅行は盛りだくさんの内容であったが、筆者にとってはその後の生き方にも大きく影響した出来事があった。この時は鉄道の旅として、メルボルン郊外にあるダンデノン丘陵地を走るPuffing Billyと名付けられたSL乗車があった。緑濃い森の中を旧式の列車は名前の通り喘ぎながら上っていき、開放感あふれる車内では楽しい語らいと丘陵地を渡ってくる風が心地よかった。丘の上には公園があり、昼食や散歩など楽しいひと時を過ごした。 そして、帰りの汽車は快調に麓駅をめざして走っていた。走っているうちに誰言うともなしに合唱が始まり、何曲かのメロディが流れた。2そして、誰かが「歓喜の歌」を歌おうという声が上がり、合唱が始まった。しかも、ドイツ語であり、そしてハモッている! 驚きであった。たどたどしく歌っている人もあったし、発声がむつかしい人は身振りや手ぶりで表現しようとしている人もあった。自分は、歓喜の歌がベートーヴェンの第九交響曲の合唱部分であることは知っていたが、もっぱら年末のラジオなどで聴く、その程度であった。そこで、みんなが力強く歌っている様子となぜ第九なの?と興味を覚え、同行のスタッフに訳を聞いた。すると次のような説明があった。具体的には、「ノーマライゼーションをめざして = ゆきわりそう 10周年記念誌」に詳しく述べられているが要約してお伝えしたい。

ゆきわりそうグループでは、姥山代表の発案でこの年9月に「私たちは心で歌う目で歌う合唱団」が編成されていた。 代表は述べておられる。 「歓喜という名に惹かれたのだ、私は過去、幾度も歓喜を味わった。歓喜が全身を包む時はいつも苦悩を乗り越え、克服した時だった。その幸福感の絶頂は生命の実感そのものであった。誰でも人生のうちに、一度や二度そんな歓喜を味わうことがある。障害者の場合はどうか。狭い環境の中で何度歓喜を自分のものにすることがあるだろうか。その機会を作ることで、何とか一歩道が拓けないだろうか。聴覚の障害を持ったベートーヴェンの第九は障害者により理解され共感されるのではないだろうか。声が出ない、言葉が言えない障害者でも心は生命に満ち満ちて歌い、人生のうちに素晴らしい歓喜を味わってほしい」と願って合唱団が設立されたという。構成は、ソプラノ、アルト、テノール、バスに加えて、音域の狭い人などにも歌いやすいように「第五パート」が加えられている。そして、翌年4月、東京・上野の東京文化会館でのコンサートへ向けて毎日曜日に猛練習をしているとのことであった。そんな話を聞いているうちに列車は麓駅に着いた。こうして、第2回目のーストラリアは前回にも増して学びも多く、中身の濃い思い出を携えて無事終了した。

それから数日して、ゆきわりそうではミュージック・パーティーが開かれた。会場は、東京目白の椿山荘であっただろうか。姥山代表の考えはこうであったと思う。重い障がいがあっても普通に暮らし、時にはおいしい料理や音楽を楽しむ、そんな機会があってしかるべきではないか。普段はジャージとスニーカーの日々であるが、この時ばかりはみんなでオシャレして、アクセサリーを付け、お化粧をして楽しさいっぱいの一日であった。プロのミュージシャンなどの演奏に続いて、合唱団メンバーにより、「歓喜の歌」が披露された。この時は、ピアノの伴奏であったが会場に響き渡る歌声に魂をゆすぶられるような感動を覚えた。多分、会場のだれもが同じ思いをされたことと思う。偶々おなじテーブルに座っていた恰幅のよい青年K氏が何と東京芸大の声楽科の学生であり、プロを目指す人であった。その彼はテノールで合唱団を応援していた。合唱団の中にはプロがそれぞれのパートとして加わり、ヴォイス・トレーニングなども受け持っているということであった。

合唱団編成の意図を伺っていたことと、会場で味わった感動が忘れられず、自分もぜひ加えていただきたいとお願いしたのは年が明けて少し経ってからのことであった。幸い、入団を認めてはいただけたがそれからが大変であった。コンサートまでは3カ月足らず、多くのメンバーとは4カ月以上のハンデがあった。ベートーヴェンと第九について学ぶこと、歌詞の意味を理解し覚えることが最大の課題であった。学生時代に第二外語でドイツ語を取っていたし、ドイツには幾度も行き、病院や施設などで簡単な通訳の真似事までやる厚かましさであったが、歓喜の歌 An die Freude はとにかく難しかった。 そこで、朝の通勤電車が教室になった。旅行会社に就職してから26年余り、出勤は午前7時過ぎには会社に着くことを旨としていたので朝起きは苦にはならなかった。毎朝6時半ごろの電車は空席も多く、テープを聞き、ドイツ語を覚える格好の場であった。練習は毎日曜日午後の2時間半、北区にある養護学校の講堂と教室が会場であった。パートはバスに組み込んでもらったが、音程を保つことと併せて高音部分の声が容易には出ず、ひたすら苦労であった。

こうして、何とかみんなに辛うじてついていけるようになり、遂に1990年4月29日、東京文化会館の舞台に大勢の仲間の一人として立つことができた。メルボルンのダンデノン丘陵を走るPuffing Billyの車中で聞いたあの「歓喜の歌」が本物になっていた。200人を超す大合唱はオーケストラの演奏と共に会場を埋めた聴衆に素晴らしい感動を呼び起こしたとNHK始めテレビや新聞でも報じられるなど大きな話題となった。 3このコンサートを記念して、「ひびけ歓喜の歌 - 私たちは心で歌う目で歌う」としてPhoto Documentが発行されている。(ミネルヴァ書房 1990年7月) その中に、このコンサートで味わった感動などが掲載されている。そのことや、そこからやがてベートーヴェンの生誕地であるドイツのボンへと想いが強まっていったことなどを次号で紹介させていただきたい。

(資料 上から順に)

Rev’d Ian G Ellisと一緒に(I・G・エリス師)ダンデノン鉄道麓駅にて。(1989/12/10)

Paffing Billy (ダンデノン鉄道 パッフィング・ビリー 資料借用)

響け、歓喜の歌 コンサート(私たちは心を出歌う目で歌う合唱団 1990年4月29日)

                               (2015/07/26)

      小 野  鎭