小野先生の一期一会地球旅67「ゆきわりそうの旅 響け、歓喜の歌(2)」

一期一会 地球旅 67

ゆきわりそうの旅  響け歓喜の歌(その2)

1990年4月29日 「響け 歓喜の歌」のコンサートが開かれた。 7か月間練習してきた「私たちは心で歌う目で歌う合唱団」は、ベートーヴェンと第九について学んできたこと、歓喜の歌に寄せる想いを身体中から溢れてくるエネルギーに乗せて力いっぱい歌った。応援していただいた声楽家やヴォイス・トレーナー、そして声の応援団として参加された他の合唱団のメンバーよりは何倍も大きな感動を覚えたと思う。 演奏が終わると舞台のあちこちでメンバーは抱き合ったり、握手したりしてこみ上げてくる喜びと達成感に浸り、感涙でくしゃくしゃにした顔があった。全体では1時間20分近い大曲であるが、第4楽章の合唱部分は17~18分ほど、幸い歌詞は覚えていたが、ときどき声が上ずったり、心配していた高音部分ではやはりうまく発声できず口パク状態であった。それでも合唱が終わり、オーケストラのフィナーレが終わると会場では立ち上がって嵐のような拍手とどよめくような歓声が上がった。後で、スタンディング・オベイション(Standing Ovation)という言い方を知った。思わず湧きあがってくるよろこびと感激で胸が熱くなったことを思い出す。

1コンサートの後、ゆきわりそうでは合唱団設立から演奏会開催、そして終わるまでの歩みや団員の感想などがPhoto Documentとして綴られている。(1990年 ミネルヴァ書房)
その中に拙文も加えられている。
「歌い終えて、かつてこれほど大きな感激を覚えたことがあっただろうか? そして、こみ上げてくる感動と心地良い脱力感、それが終わったときの率直な気持ちであった。人は一生のうちにこれほど大きな歓びと感動を幾度経験できるであろうか、それは関わった者のみに与えられる特権かもしれないが、きっと多くの人を共鳴させ、共感を喚起させるに違いあるまい。

数年前、フランスの発達障害者施設「愛の巣事業団」を訪れた時、その園生のひとりが「僕たちから得られるものも多いはずです」と法人職員に言っていたこと、あるいは、ゆきわりそう利用者のお母さんのお一人からも「この子から教えられることが多いし、この子のお蔭で私も強くなりました」というお手紙をいただいた時もその意味するところを完全には理解してはいなかった。しかし、この「第九」参加を通じて彼らのひたむきな様子を知り、その熱意と賢明な練習態度、そして彼らと一体になってなし終えたことから私は言い知れぬ大きなものを感じたように思えるし、何かを得たような気がする。

高校時代はホルンを吹いていたし、旅行業に入って幾度となく訪れているドイツでは時に通訳の真似事もしている私は、ドイツ語にはある程度親しんでいたが、「歓喜の歌」はそんなに生易しいものではなかった。もとより歌うことは好きであったが所詮は鼻歌の域を出ず、仕事の多忙さもあって仲間に加わったのは、この年の2月。毎日曜日の練習は日頃のストレス解消にも大きく役立ち、楽しみであった」(一部修正)

姥山代表は、歌詞の中にある“Alle Menschen werden Brüder” 「すべての人々は兄弟になる」という文言がこの合唱団で訴えたいことのすべてであると言っておられると思う。あとがきの中には次のよう書かれている。

「ベートーヴェンの第九に重ねてたくさんの人に訴える
障害のわくを、社会のわくを、人間同士のわくを外す思想を自分の中に確立する
何ときびしい課題であったか、それを阻む壁は高く、厚かった
この間、ベルリンの壁はとり払われた 私達の壁はとり払われたか 人間が作り出したこの罪深き壁は私たちの第九をゆがめてしまうようなできごとをいくどかおかした 又、私の内なる精神の土壌にも根強くあり、それは私を悩ました

第二楽章が終わり、障害者と共にステージに立った私をつつんだのは第三楽章のやわらかなやさしい旋律と今まで聞いたこともない心に沁みいるような甘い音色であった
『何ものも許してあげるよ』
どうした事だろう 私は神に許しを乞うように頭を地面に垂れて祈りたくなったのだ
私の苦悩はとり払われ、私は地上から離れ、清らかな美しいものにつつまれ、天上のひととなった
それは、ほんの一瞬であったけれど

あれから もう 何日もすぎた
神々しい気分は体に刻み込まれ 時として 私を忘我の境地に誘う
だからと言って すべての苦悩がなくなったわけではない
人生は果てしもなく続く荒野である それは生きている証なのかもしれない そして
私たちは 時としてあのように許され 苦悩から解放される時を得るのかもしれない
コツコツと 壁を取り去るために 手に豆を作り 血をにじませ 痛みをこらえながら
今日も あしたも ずっと 生きている限り その作業を続けるのだ

アーレメンシェン ウェルデン ブリューダー(すべての人々は兄弟になる)は
もしかしたら夢ではないのかもしれない

どよめく声と 嵐のような拍手に 私はそれを信じる
みんなの頬に流れる涙に 上気した顔と笑顔と全身の汗にそれを見る

私たちの第九 響け 歓喜の歌
1990年4月29日は終わった すばらしい佳き日であった」

2 コンサートが終わって数日して、ゆきわりそうに邪魔した。合唱団の事務局何人かが集われ、演奏会開催までの苦労話や終わってからの感想など楽しい会話が続いた。私は、「いつか合唱団をドイツのボンに案内して、ベートーヴェンの生家を訪れ、できたら現地で第九を歌えるといいですね」などと話した。 しかし、代表は、コンサート開催までの苦労と困難を思い、一方では一度味わった歓喜をそのまま持ち続けてそれを崩したくないという複雑な思いがおありだったのではないだろうか。新たな演奏会は考えたくないという気持ちを抱いておられるようにうかがえた。それだけ膨大なエネルギーと労力、表には見えない様々な戦いや葛藤があったのだろう。

3音楽家にとって致命的な障害であったであろう難聴という苦悩にあえぎながらも第九交響曲を作曲したベートーヴェンの生まれ故郷をぜひ訪ねてほしい、個人的にはそう思っていた。そして、できることなら現地の人々と“歓喜の歌”An die Freudeを共に歌い、交歓していただく機会をぜひ作りたい、とひそかに願っていた。

それからしばらくして姥山代表から連絡があった。

「ドイツでコンサートをやること、あれってできるかしら?」とのことであった。国内で演奏会をやるだけでも大変な苦労があり、それを海外でやるとなるとさらに難問が続出するであろうし、どこから手を付ければよいのか、それを考えただけでも気の遠くなるような話であるけれど、可能性があれば、やってみようか・・・

お話を伺って、心の中にメラメラと火が燃え始めた、というと少し大げさであるが頭の中ではそれまでにいくつかのことを考えていたので、「ドイツには知り合いもあるし、何らかの道を開くことができると思います!」と即座に答えた。

「ボンに響け、歓喜の歌!」はこうして、小さな灯が点り始めた。 多分、1990年の秋ごろであったと思う。

(資料 上から順に)

Photo Document

ひびけ歓喜の歌 (姥山寛代/私たちは心で歌う目で歌う合唱団編著 (ミネルヴァ書房 1990年)

もちつき風景 (合唱練習だけでなく、ゆきわりそうのいろいろな行事にも参加した)

(Photo Document より)

ボンの町とベートーヴェンの銅像 (資料借用)

 

(2015/08/2)

小 野   鎭