小野先生の一期一会地球旅68「ボンに響け 歓喜の歌 その(1)」

一期一会 地球旅 68
ボンに響け 歓喜の歌 (その1

ベートーヴェンの生誕地であるドイツのボンで第九を歌うこと、それをどうやって実現するか、自分なりに探り始めた。1990年の秋も次第に更けていく頃であったと思う。これまで数多くの視察団や研修団のお世話で「西ドイツ」は数十回訪れていた。そして、視察先や研修先とのやり取りは直接あるいは手配会社(Land Operator)を通して関わってきた。従って、福祉や医療、農業など様々な団体や機関のことについてはよく承知していた。ところがヨーロッパの多くの国と勝手が違うことがあった。イギリスならロンドン、フランスならパリ、スウェーデンならストックホルムなどと視察テーマは違っていても多くの場合首都を訪ねることが多かったが、ドイツは昔から地方色が強いことが特徴である。ハンブルク、デュッセルドルフ、ケルン、フランクフルト、シュツットガルト、ミュンヘン、あるいはベルリンなど主要な都市1~2か所で主たる視察などを行い、それに続いて地方の豊かな文化や歴史、風物を訪ねることが多かった。

また、1989年11月9日に東西ベルリンを分断していた壁が崩壊し、90年代に入ると事実上東西ドイツの再統一が始まっていた。そして、それまで「西ドイツの首都であったボン」はいずれ首都機能がベルリンに移されるという歴史的にも大きな変容の渦中にあった。ライファイゼン農協の国際部、あるいは医療施設や福祉施設見学などで幾度かボンは訪れていた。勿論ベートーヴェン・ハウス(生家)も行くたびに見学することが多かった。とはいっても、第九コンサートを行うための核となる組織や協力をお願いするような団体への心当たりは無かった。プロの音楽関係団体やオーケストラなどであればそれなりのルートもあるであろうし、具体的な行動に移ることはさほどむつかしいことではなかったであろう。しかしながら、それは専門家たちのやる方法であり、巨額の費用が掛かり、商業的色彩が濃くなることは容易に想像がつく。しかしながら、そのような手法は我々が取るべき方向ではなかった。

ドイツでの協力先を探すうえで、私たちは心で歌う目で歌う合唱団と第五パートについて説明することが肝要であった。第五パートは、音域の狭い人や発声しにくい人たち、知的障害のある人たちにも歌いやすく編曲されている。合唱団設立当初から指導していただいてきた新田光信氏と声楽家の瀬尾美智子氏が共働されて加えられたものである。「付けたり」のパートではなく、第五パートそれ自体が立派な特徴を持ち、他の4パートと呼応しており、この合唱団の核としての存在であるといってよいであろう。のちに、姥山代表は「第九に障害者を近づけたのではなく、障害者に第九を近づけた」と言っておられる。後年、ユニバーサルデザインという言葉が使われるようになってきたが、2000年にニューヨークで演奏会を行った時は、国籍、宗教、人種や皮膚の色、言語を問わず平和を希求する人が集って21世紀へのメッセージを送ったがこれは合唱のユニバーサルデザイン化であったといってもよいであろう。第五パートは、私たちの合唱団の顔である。

1そこで思い付いたのが、トム・ムッタース博士、1973年から隔年で行われているアジア精神薄弱会議(当時の表現)やIASSMD(国際精神薄弱研究協会)の国際会議等でたびたび顔を合わせている人物でLebenshilfe für Geistig Behinderte(ドイツ精神薄弱者育成会)の会長であった。アジア会議には、アジア各国だけでなく、この分野の欧米先進国の専門家や組織の代表者などの顔があった。当時は発展途上国であったアジア各国の発達障害者福祉やサービスの向上を促すという立場であったのだろう。筆者は、ドイツにはひとしお強い関心を持っていたので氏とはよく言葉を交わしていたし、折があればマールブルクにあるドイツ育成会の本部を訪ねたいと思っていた。実際に1989年1月に北海道のグループを案内して訪問していたし、ドイツ各地の知的障害者施設見学のための協力なども得ていた。そのような経過もあって、氏にボンでコンサートを開きたいので協力していただけないか、と相談した。

当時は、まだEメールなどは無かったので航空便とFAXでのやり取りが主であった。氏が音楽、ベートーヴェンや第九にどれほどの関心や興味があるかなどは考える余地もなかった。しかしながら、私たちは心で歌う目で歌う合唱団の特徴、ボンを訪れたい、何とか地元の人たちと交歓して一緒に「歓喜の歌」を歌いたい、ということを強調した。待つことしばし、彼から確約はできないがいくつかの可能性を見つけることができたという連絡を受けた。2
育成会のボン支部にも相談したところ地元では可能な限り協力することを約束しているとのことであった。教会の聖歌隊やボンのオーケストラ関係者の協力も得られそうだとの話も付されていた。一方では、東西ドイツの統合が進んでいく中で旧東側の知的障害者福祉サービスを向上させることが大きな課題であるのでできる範囲の協力をして欲しい、との言葉も付されていた。こうして、ボンでのコンサート開催への曙光が見えてきた。

一方、姥山氏はドイツに詳しい大学教授に相談されたり、様々な伝手をあたっておられたが芳しい手段は容易には得られず、むしろ障害者が第九を歌うということについて厳しい意見などが寄せられていたことを幾度か聞いた。このことは、ボンでのコンサート終了後に発行された記念誌に載せられている。今、読み返してもあまりにも厳しい指摘にむしろ憤りさえ覚える内容であった。

一例をあげると、「障害児といわれている子どもたちの多くはたとえ軽度であっても塾やお稽古事とは無縁に暮らしている。こういう中で昨年暮れ(1992年12月)障害を持つ若い人たちがプロにまじってベートーヴェンの第九を歌い、次の目標はウィーン(実際はボン)だと聞いて驚いた。歌った人たちは本当にいっしょに歌ったと思っているのか先ず気になった」(中略)

「造形美術ならわかるけど、どうして大舞台で人に聞かせなければならないのか、それは少なくとも理想的な参加のかたちではないし、ましてそんなことで障害者と健常者の平等などというとしたらおかしなことだと思う。演奏自体が芸術的レベルの高いものになるということはあり得ないわけだし、観客が拍手するのは、音楽に対してではなく、同情とか、自分は障害者や福祉の問題に対して好意的協力的な人間ですよというところを見せたいとか、そういうものから来るわけでしょう?・・・」と続き、最後には「障害児の混ざった団体なら、少なくとも意地の悪い眼で見られることだけはないとおもうけど。 でも、私は音楽家だから基本的な演奏の内容、質で勝負できないものをわざわざ外国まで持って行って披露しようということ自体、残念というか、批判的に思わざるを得ません」とあった。

他にも、痛烈な意見や自分たちの会報に記事を書く人などもあり、ゆきわりそうでは、これらのコメントや見方があることでどうするべきかについてみんなが考えられた。第九を学び、第九によって世界を広げ、人生をかけているメンバーたちと二か月間、週一回、計8回をかけて話し合い、考えてみる、またその親たちの意見を加えることなども試みられた。そして、その結果、「そこにはより芸術性の高いものでなくてはならない。障害者だけではそれは成し得るものではないが、そこにオーケストラ、声の専門家たちの参加が得られたとき、第1回、第2回の演奏に見られたように、今までになかった第九という芸術が出現したことは確かだ。涙と嵐のような拍手と声援に、同情と憐れみがあったか? 否、200に近いアンケートの、鳥肌が立つという感動を読めば、確かにそのとき、舞台と会場は共に「生きる意味」について共感したのだ、哀れみや同情で鳥肌は立つものではない」3

記念誌を読み返すと、私たちは心で歌う目で歌う合唱団の活動には多くの紆余曲折があったことがうかがえる。こうして、様々な意見や考え方などを身にうけながらより真剣に練習に励み、次第にドイツへの期待を高めていった。

(資料 上から順に)
T.ムッタース博士 (1977年 アジア精神薄弱会議 インド バンガロールにて。
真ん中でカメラを覗いているのが博士、右から2番目が筆者 (1977年11月)

ベルリンの壁崩壊  (1989年11月  資料借用)

ボンに響け 歓喜の歌 そして 憧れのスイスへ (記念誌 1993年)

(2015/08/10)
小 野  鎭