2015.08.19 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅69「ボンに響け 歓喜の歌 その(2)」

一期一会 地球旅 69

ボンに響け 歓喜の歌 (その2)

1991年はもっぱらボンでの伝手探しに腐心していたが、Tom Mutters氏からの回答で次第に夢が膨らみ、実現へと進んでいけそうな自信が湧き始めてきた。「mutter」は、英語では《ぶつぶつ不平を言う、雷がごろごろ鳴る》などの意味らしいが、ここはドイツ、《母》ではないか! 自分なりに、「慈母」と解釈してすっかり嬉しくなった。しかも複数である! そこで、姥山代表にこのことを伝えて、本格的に取り組むことになった。多分、そのことが合唱団にも伝わり、団員は希望を持ち始めて練習に力が入っていったような気がする。
この年、11月にパキスタンのカラチでアジア会議が行われ、この時もムッタース博士は参加しておられた。そこで本格的に話を進めることについて約束を取り付けることができた。10数年来の知己であることをこの時ほどありがたく思ったことは無い。本格的に準備が始まると合唱練習は合唱指導者にお任せするとして、現地側の協力体制すなわちオーケストラ、指揮者、合唱団、会場、集客、そのための資金調達はどうなるのか、など気の遠くなるような話が続出した。そしてそれらを充たしていくためには1年~1年半くらいはかかるであろう、と想定され、1993年5月中旬にコンサートを開きたいという希望が固まっていった。 旅行という観点からは、勿論第一の目的が、演奏会の開催であることは当然として、さらにはライン川の遊覧、ボンやケルンなどの見物、コンサートが終わった後、スイスへ足を伸ばしてアルプスの雄大な風景を見ていただきたい、といくつかのテーマを掲げてこれを提示した。次第に話が進み、より具体的な準備を進めるために、92年5月の連休明けに代表と事務局担当と筆者の3人で訪独した。 ムッタース氏との打ち合わせ、現地の様子を探ることなどが目的であった。この段階では、現地での協力者などは具体的には決まっていなかったが、それでもレーベンスヒルフェ(ドイツ育成会)ボン支部が動いてくれているらしく、地元のオーケストラの有志や教会の合唱団などが興味を示していることなどがわかってきた。会場は、ボンの劇場なども検討されたらしいがこれは多くの車いす使用者が舞台に上がるとかオーケストラと合唱団ともなればかなり大きなステージが必要であり、いまひとつ芳しい返事は出ていなかった。氏は、ボンの市役所のホールも提案されてそれを見に行った。正直なところ、私たちのコンサートとしては手狭であり、希望とはかけ離れていたがとりあえずはそれも一つの案として伺っておいた。そして、引き続き会場候補を探してほしいとお願いをした。 この時、気づいたことはムッタース氏が障害者福祉関係では素晴らしい方ではあったが、コンサートを開くための現地オーガナイザーとしての経験はもちろんそのような分野とはあまり縁のない人であっただろうということであった。しかしながら、氏は合唱団の特徴や真摯な願いを理解されてなんとかその希望を叶えてやりたいと願われ、いろいろな人や関係者に協力を呼び掛けてくださったのであろう。また、フランクフルトなど中部ドイツで以前からお世話になっていた通訳者T.萩原女史にこの時も協力してもらった。彼女自身、かつて第九を歌ったことがあるとのことでとても好都合であった。 ボンでの下準備は、確証を得ないまでも徐々に芽が出始めていることを知り、一方ではホテルや交通手段など旅行面での下見も大切であった。
幸い、スカンディック・クラウンという大型ホテルに「車いすのお客様用の部屋」なども数室あり、ロビーやレストランなどのトイレも具合がよさそうであることを確認した。また、ボンの町は比較的平坦であり、街路の歩道も広く、旧市街などの散策も楽しめそうであることを実際に見ていただいた。その後、鉄道でライン川沿いに走り、途中で降りて遊覧船でライン川中流の景勝地を味わってもらった。ゆったりした船旅は楽しんでもらえるに違いない。遊覧船にはこれまでも多くのお客様をお連れして好評であり、合唱団のメンバーにもきっと喜んでもらえるだろうとの確信があった。 ボンでの準備がこれから先もさらに大きく前進することを願い、今後の連絡は手配会社であるミキ・ツーリストを介して行うことでドイツを後にした。ボンから鉄道でスイスのバーゼルまで5時間余り、さらに乗り換えてルツェルンに至った。かねて幾度も訪れて、スイス中央部アルプスのティトリス(3238m)の山頂に立っていただきたい、というのがもう一つの大きな願いであった。ルツェルンからは鉄道で1時間弱、エンゲルベルクという小さな村があり、そこからローウウェイを乗り継いで40分余り、終点の展望台は海抜3020m、万年雪の世界である。これまでに幾度か訪れて展望台やレストラン、トイレなどの様子もよく見ていたので、合唱団のメンバーが訪れるにも支障はあるまいと自信を持っていた。実際に、姥山代表にも見ていただき、予想以上に喜んでいただくことができた。宿泊は、スイスを代表する観光地の一つであるルツェルンを予定していたが、むしろ、山麓のエンゲルベルク(海抜1000m)の静かなたたずまいのほうがずっと良いであろうという結論に達した。山から下りてきて、ひととき休憩したTreff Hotel Titlisというホテルが格好の滞在施設として浮かび上がったのであった。
こうして現地調査を終えて準備はより一層具体化していった。 航空会社は結局この時もいくつかの理由からドイツのルフトハンザ航空の協力を得ることになった。さらに、Karthauser Kantreiという教会関係のオーケストラが核となってくれること、聖歌隊などのグループを交えて合唱団も編成されそうであること、Tono Wissingなる若い指揮者が立ってくれることもわかってきた。地元ボンにはBeethoven Orchester Bonnというオーケストラがあるが、どうやらその楽団員の多くが個人的にこのコンサートのために編成される拡大オーケストラに加わってくれていることが後からわかった。また、会場としては、Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universität Bonn ライン・フリードリッヒ・ヴィルヘルムス・ボン大学=通称ボン大学の講堂が準備されることが報じられてきた。そして、演奏会は1993年5月14日と決まった。 所要経費として、オーケストラ関係費、指揮者、ソリストなどの出演料、会場費、複数の通訳者、種々の設営費や打ち上げなどを含めるとかなりの金額が必要である。そして、それが妥当な金額であるのかどうかを判断する材料はなかったが、音楽関係者などに聞いてみるとそれはプロなどの場合よりもかなり安いことがわかって安堵した。とはいっても、日本から同行してもらう音楽関係者たちの費用、翻訳や印刷関係なども加えると1500万円以上の金額が必要であることがわかった。旅行費とある程度の演奏会関係の費用は参加者自身が負担するとしても、この巨額の費用をねん出することは難しい。いろいろな団体などに協力をお願いすることなどが試みられた。八方手を尽くされた結果、財団法人東京都文化振興会から大きな助成をしていただけることになったと知り、ほんとによかったと思った。
姥山氏や合唱団、そしてその母体である地域福祉研究会ゆきわりそうの活動が評価され、そのうえでこの合唱団の目指すところが理解され、その試みに対して大きな支援をしていただけたのであろう。代表始め皆さんから大歓声が上がったことは言うまでもない。 準備が着々と進められ、最後の詰めとして93年2月末から単身エンゲルベルクとボンを訪れ、各種のプログラムについて関係者との打ち合わせ、会場見学、旅行手配などの準備状況を確認し、出発に備えてやるべきことを探った。これらを持ち帰り、旅行説明会、練習はいよいよ本番へ向けて一層熱がこもっていった。振り返ると長い道のりであったが、一歩一歩道が拓けてきたことが嬉しかった。こうして、合唱団と家族や関係者そして合唱指導など総勢116名、これに4名の添乗員がついて1993年5月10日に出発することになった。 (資料 上から順に) 1)トム・ムッタース博士 今回、この稿を書くにあたり、氏についてホームページを開いてみたところ、次のような写真と記事があった。
Lebenshilfe-Gründer Tom Mutters wird 95
Der Gründer und heutige Ehrenvorsitzende der Bundesvereinigung Lebenshilfe für Menschen mit geistiger Behinderung Tom Mutters wird am Montag 95 Jahre alt. Der Jubilar feiert mit seiner Ehefrau und Familienangehörigen in seinem Wohnort Wehrshausen 「ドイツ知的障害者育成会の創始者であり、名誉会長であるトム・ムッタース博士は95歳の誕生日を迎え、家族などが彼の自宅で祝福した」(要訳)とある。(2012年1月22日) 今年は98歳の誕生日を祝福されたことを願っています。(小野) 2)エンゲルベルクの村 3)Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universität Bonn 通称 ボン大学 講堂は本館の3階にある。 (資料借用) 4)最終打ち合わせでもう一度エンゲルベルクを度訪れた。(1993年2月28日)

(2015/8/18)

小 野  鎭