2015.09.16 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅73「ゆきわりそう 忘れえぬ旅 サンディエゴの思い出」

一期一会 地球旅 73

ゆきわりそう 忘れえぬ旅 サンディエゴの思い出

ゆきわりそうグループでは、夏冬に群馬の山荘や八丈島などへ出かける様々なプログラムを組んでおられる。自然とのふれあい、温泉や水泳、乗馬などを経験することで重度の障がいのある人たちも動きが活発になるとか、ADL(洗面、衣類の着脱、食事、排泄、入浴など日常生活動作)や移動などもより積極的に行おうとする変化が見られ、家族にとっては、レスパイト・ケア(ひとときの休息など)にもなると思われ、総体的にはQOL(生活の質)の向上が促されるということにつながるのであろう。このような年中行事としてのプログラムのほかに旅行も積極的に推奨されている。以前に紹介したゆきわりそうで創立10周年を記念して発行された「ノーマライゼーションをめざして」(姥山寛代編著、中央法規出版)には次のような記述がある。「私は、スタッフに広い世界を見てほしかった。スタッフが旅行療法を兼ねて国外でも障害者の生活や障がい者がどのように扱われているかを体で感じてほしいので、スタッフの旅行費用もままならなかったが、順番に連れていくということなどを実現したかった」 というわけで、機会あるごとに旅行を企画された。スタッフや施設経営という観点から見れば大きな負担になっているとは思われるが、様々な工夫をすることで旅行を企画されていた。重い障がいのある人や家族にとって旅行という非日常の日々を過ごすことから得られる様々な効果が大きいことを実感されていたのだろうと思う。よく言われる「旅はリハビリ」という言葉がぴったり当てはまるようである。 1990年代は、高齢化社会から高齢社会が到来し、シルバービジネスということばが使われるようになり、シルバー世代へ向けた旅行が盛んになってきた時代でもあった。一方では、「障害者旅行」が一般にも広がり始める機運が見えてきた。宿泊機関や交通機関に対して、車いす使用のお客様などが旅行を楽しめるようにハード面の整備をすることやサービス面での工夫などいわばソフト面での充実が求められるようになってきた。1995年に当時の観光政策審議会により、「すべての人には、旅をする権利がある。旅には、自然の治癒力が備わっており、旅をする自由はとりわけ障害者や高齢者など行動に不自由な人々にも貴重なものである」いわゆる「旅は人権」という提言がなされた。私たちは、その分野の旅行を一層強く意識するようになり、その取扱いに力を入れていった。 ゆきわりそうでは、第1回目のオーストラリアからたびたび海外旅行を実施されたがさすがに毎年となると負担が大きいので、1991年は一休みしようといっておられた。一方では、合唱団がドイツで初めての海外演奏会を行おうという準備が少しずつ始まっていたときでもあったので、無理からぬことである。ところが、N青年の父親から「アメリカ西海岸のサンディエゴ」に行きたいとN君が言っているので旅行を企画できないだろうか」との相談があったと聞いた。姥山代表も、熟慮された結果、計画してみようということになった。
サンディエゴは、人口面では、カリフォルニア州ではロサンゼルスに次ぐ大都市、知名度はサンフランシスコなどに比べると一歩譲らざるを得ないが、美しい海岸と都市美、サンディエゴ動物園やアクアパークなど、観光面では楽しさが期待されるところである。加えて、メキシコ国境まで車で30分ほどであり、それも面白い経験になるかもしれない。筆者自身は幾度か訪れた経験があったので、旅行計画を立てる上からはあまり苦労は無かったが、今までと違って、肢体不自由のお客様などが多いのでホテルや貸切バスなど特別配慮が必要である。 いろいろ調べるうちに、Accessible San Diegoという組織があり、こちらの希望に沿った受け入れをしてくれるであろうことがわかってきた。日本でいうNPO組織であり、主として障がいのある人の旅行相談を受けたり、実際に旅行手配や受け入れもやっていた。そこで、希望を述べたところ、ホテルはEmbassy Suiteというサンディエゴ中心街にも近い中級のところを紹介していただけた。実は、カナダのときもそうであったが、このNPOのリーダー Mr. Wes Johnson自身、車いす使用者であり、自らの経験上からも旅行相談や手配は利用者の目線で対応されており、良く配慮が行き届いた内容であった。
一般に現地手配会社(Land Operator) に相談するとツインベースのホテルであり、トリプルや家族などが1室に3~4人で泊まりたいという希望を出すと希望通りにはいかないことが多い。このホテルは1室いくらという部屋代であり、2~4人くらいがゆったり泊まれ、部屋内部のスペースもゆったりしており、車いすで動くにも都合がいいと好評であった。屋内プールもあり、N君は、同行スタッフと一緒に初めてプールに入った。頭と足を二人がかりで支えて、ユーラユーラと左右に揺らすと全身の緊張が取れてとても快適だったらしい。彼は、緊張さえ取れたら肢体に不自由があっても生活するのにはほとんど不自由が無かったそうだ。水の中の揺さぶりが最適であることの発見は、日本に帰ってから、本格的にプール参加につながったとのこと。 サンディエゴ動物園は南カリフォルニアでも代表的な動物園の一つとして知られていた。今でこそ、日本でも旭山動物園などとても楽しい大型の施設が日本にも多く見られるが、サンディエゴ動物園は自然と遊園設備がよく整っていた。広大な園内に移動と楽しさを合わせた乗り物なども良く工夫されており、一日ピクニック気分で楽しめた。 もう一つの思い出は、メキシコとの国境まで郊外電車で行ったこと。最近日本でも見直しが始まっているLRT(次世代型路面電車)がサンディエゴの中心街から市内電車のかたちで走り出し、やがて郊外に出る。南へ走り、車窓には美しい住宅街やはるかに太平洋が望め、約40分、サン・イシードロ(San Ysidro)に到着。鉄道はそこが終点、その向こう側には厳重な鉄柵と大きな建物があり、メキシコとの国境になっている。チラッとメキシコ見物も悪くなかった。 真っ赤な車体のLRTは、快適そのもの。車体は低く、先頭車両の運転台の脇には車いすスペースが確保されていた。運転士は、車いす使用の乗客があるときは、運転台に座ったまま、ボタンを押すとリフト台がおり、お客は車内に入り、車いすスペースに移ってブレーキをかけて固定する。そして利用者責任を確認の上、電車は発車する。乗合バスもそうであるが、通常ワンマン運転であるので、運転士が運転台から下りてきて車いすのお客様の乗降を助けるなどの支援は無い。
カリフォルニアの州法か全米共通であるかはわからないがアメリカでは多くのところで同じような風景を見た。1990年にアメリカでは、ADA法(障害を持つアメリカ人法)が施行されて交通機関や公共建造物、レストランやホテルなどのバリアフリー化が一層促進されていた。EO (Equal Opportunity) = 機会均等が教育機関や就労など様々な場で徹底されるようになっていった。車いすの人たちを町中で見かけることも珍しいことではなかった。 この旅行では、もう一つ忘れられない思い出がある。姥山代表の親しいお友達であった重兼芳子さんという方が参加された。旅行に出る少し前に手術をされたとかで娘さんもご一緒であった。作家として著名な方であったが、私たちにも気安く接してくださった。終始各地でのアトラクションなどを楽しまれ、お寿司をご馳走してくださったり、夕食会ではダンスを楽しんだりしておられた。代表とも様々な思い出など昔を懐かしんでおられ、楽しい語らいの様子がうかがえた。帰国して、翌年であっただろうか、ラジオで重兼さんの訃報を聞かれた代表の驚きと悲しみの様子が今も思い出される。サンディエゴでの数日間、作家はどのような思いで過ごしておられたのだろうか、敬虔なクリスチャンであったそうで、間もなく神に召されていくことを思いながらのひと時であったのかもしれない。 (資料 上から順に  いずれも1992年) サンディエゴとロサンゼルス9日間の旅(旅行パンフレット) Accessible San Diegoとのやり取り 夕食会前のひと時、右端がAccessible San DiegoのWes Johnson氏

(2015/09/15)  小 野   鎭