2015.09.30 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅75「 南十字星に贈る歓喜の歌(その2)」
一期一会 地球旅 75 南十字星に贈る歓喜の歌 (その2)   現地調査終え、「南十字星に贈る歓喜の歌」の準備は順調に進み始めたが、1995年が明けて間もなく、思いもかけなない悲劇が起きた。1月17日早暁、阪神淡路大震災である。現役時代は、毎朝7時過ぎには出社していたので、5時半ごろ起床するのが常であった。トーストをほおばり、コーヒー飲んでいたところ、軽い揺れを感じた。地震だ、とすぐにテレビのスイッチを入れると神戸や淡路島方面が大地震に見舞われているようだとのニュースであった。6000人以上もの人が犠牲になり倒壊家屋や道路、鉄道など甚大な被害が発生し、被災地はもとより、日本経済にも大きな落ち込みがあった。合唱団員は、ほとんどが東京や関東地方の在住
であり、被災した人はいなかったが、親類や友人、関係者などが被災されたという話は聞いた。震災発生直後から救災活動と復旧作業に国力を挙げて進められたが、並行してボランティア活動が積極的に行われたことも大きく報じられていた。合唱団員の中には、実際に現地を訪れた人もあったかもしれないし、様々なかたちで激励し救援活動に力を入れた人も多かった。被災地はもとより、日本中が沈鬱なムードに包まれ、海外旅行の計画を取りやめたり、派手な慶事を自粛したり、という傾向が強まっていった。この年、12月に予定されているニュージーランドでのコンサートも中止または延期されるかもしれない、と内心では心配していた。2年前のボンのときは、出発前に急逝された団員があったため、この時もそのような危惧を抱いたが、今回は1年近く前であり、予定通り実施されることとなった。 団員は練習に励み、参加者募集も少しずつ始められていった。障害者福祉の向上と国際交流促進という観点からもボンでの成功という前例をもとに財団法人東京都国際平和文化交流基金への助成金交付申請も行われた。 今回も、20人近い肢体不自由などで車いす使用の方や20名近い知的障害がある方など、それぞれの家族や関係者、合唱指導関係、スタッフなど全体では110名位の参加が予想された。プール教室のメンバーは合唱団を応援し、そのあとカイコウラでのイルカとの遭遇に期待を寄せていた。前回出発直前にN青年を亡くされたご夫妻も彼の遺影を抱いて参加されていた。大手の企業を早期退職し、バリアフリーホテルを造ることを目指してそのための体験を目的に参加された三木亨・和子夫妻もおられた。お二人はその後、北海道の弟子屈町でユニバーサルデザインのプチホテル「風曜日」を開設されて、今では多くの人々に愛されるホテルとして広く知られるようになっている。ボンのときは参加されなかったが、その時の話を聞いてもっと障がい度合いの重い人の参加もあった。旅行手配はその頃普及し始めていたバリアフリーということをより強く意識して可能な限りこれを取り込むこと、難しい場合は、それを様々な工夫や人海作戦で乗り越えていこうと様々な話し合いがもたれた。 このような準備を進めながら、一方では、阪神淡路大震災で被災された人々への支援と激励をすることを目的としてチャリティ・コンサートを開くことが計画され、東京文化会館でその年8月27日に「ひびけ生命の応援歌・第九コンサート」が行われた。オーケストラ始め、ニュージーランド公演参加者はもとより、多くの人々が舞台で力いっぱい「歓喜の歌」を歌った。聴衆はもとより、合唱団員も参加費や義援金を支払うなど多くの善意が寄せられた。そして、障がいのある団員が主となって現地を訪れて被災された障がい者など関係団体にこれが届けられた。 日本での準備が進んでいく中で、現地オークランドからも受け入れ態勢など様々な情報が届いていた。プログラムは、和太鼓演奏に始
ま り、エグモント序曲、オーケストラのためのラプソディなどと続き、ベートーヴェンの第九交響曲第4楽章がメインとされることになった。 オークランド交響楽団、そしてオークランド混声合唱団には、現地在住の日本人グループも参加することになっていた。ソプラノ、アルト、テノール、バスいずれもニュージーランドやオーストラリアはじめ英国などのオペラでも活躍しているソリスト4人も決まっていた。あの世界的なソリスト、ソプラノのキリ・テ・カナワを生んだこの国である。大いに期待しよう!ということで私たちの合唱団もさらに練習に力が入っていった。オーケストラの指揮は、事前打ち合わせで会ったG.ディヴァーン、もう一人の合唱指揮者として、ケネス・コルニッシュが登壇することになっていた。指揮者が二人いるということは、ちょっと奇異に感じたが、大きな演奏会ではそのようなやり方もあるとのこと。舞台の奥にオーケストラが位置し、合唱団がその前に広がり、最前列は客席の最前列と殆ど向き合うことになるので実際には聴衆は数席空けてその後ろから座ることになるらしい。オーケストラの指揮者は合唱団の後ろに立ち、合唱指揮者は、客席の真ん中あたりに立って指揮をすることになるという。一体うまくいくのだろうか?という素朴な疑問があったが、ここは現地側に任せるしかない。うまくいくことを願うのみである。
ニュージーランド航空との折衝、現地手配会社を通じてホテルや鉄道、貸切バス、アオテア・センターのホールや打ち上げ会場なども極力車いすの方々に使いやすいように配慮をしてもらうことを強調しながら準備を進めることを常に言い続けてきた。毎度のことであるが気の遠くなるような準備もボンのときに比べるといろいろなところでずいぶん要領よく進められたと思う。こうして、12月7日、一行は1年余りの準備を経て、オークランドへ向かった。 実際のコ
ンサートの模様とその感想、さらにコンサートが終わってイルカとの遭遇を目指したグループの様子などは、筆者が書くよりも、この時の代表者である姥山寛代氏の旅行記、そしてカイコウらへ向かったTU氏の感想を伝える方がより臨場感を感じていただけると思うので、それを次号で紹介させていただきたい。         (資料 上から順に) 大きな被害が出た神戸市の様子(阪神淡路大震災 1995年1月17日 資料拝借) 南十字星に贈る歓喜の歌 コンサート プログラム (1995年12月10日) 同上 計画から実施までの記録ファイル(1994~1996 約2年間) 同上 携行旅程 表紙(1995年12月7日 出発)   (2015/09/29) 小 野  鎭