2015.10.28 小野 鎭
一期一会地球旅79「21世紀の平和を願って その2」

一期一会 地球旅 79

21世紀の平和を願って その2

社がひん死の状態にある中でのニューヨーク行きは耐え難い辛さであったが何とかコンサート実現の目処をつけたい、そうすることで大きな団体をお取り扱いすることができて起死回生へのきっかけに成り得るに違いないとの思いであった。社員からの激励がある一方で刺すような視線も感じながら悲壮な気持ちでTCAT(東京シティエアターミナル)から空港行のリムジンバスに乗ったことを思い出す。 初冬のニューヨークをあわただしく走り回って関係先を訪ねた。最初は、M音楽事務所の代表Peter某氏であった。個人的には、9月に別件で訪紐した際に彼に会ってビデオなどを届けておいたが公的には初顔合わせであった。彼自身指揮者でもあり米国内のみならず東欧などでの演奏経験も豊富らしくその実績を語ってくれた。我々の特徴についてもボンやニュージーランドでのビデオからかなりのことを理解しているようであった。今回は、第九交響曲「歓喜の歌」を通して21世紀の平和を祈るメッセージを送りたいという合唱団の願いについても同意してくれた。 合唱での共演については、ある宗教関連団体のグループや高校の合唱団などを考えていること、聴衆は、在住の日本人や日系人などのほかに、自分が考えている合唱団などの家族や関係者にも呼びかける予定だとのことであった。 オーケストラは、プロとして活躍している演奏家やプロを目指している学生たちを集めて編成し、自分が指揮をする、との説明もあった。この時知ったことは、わが国では東京などにもいくつかの交響楽団があるが、ニューヨークでは、超一流のニューヨークフィルなどを措いてはその都度、演奏家たちを集めてオーケストラが編成されるらしい、ということであった。肝心のカーネギーホールを借りるということについては、具体的に2000年6月上旬使用を打診しているとの話も聞くことができた。もう一つ、気になっていることは経費である。ボンでは、ドイツ育成会の会長、ニュージーランドではオークランド市の協力があり、いずれの場合もそのための経費はほとんど不要であった。ところが、ニューヨークでは全体的な連絡調整役がなく、それをこの事務所に頼むことになる。すでに東京都の友好都市であるニューヨーク市へ協力のお願いをすることになってはいるが行政機関であり、このような実務をお願いすることはできない。M音楽事務所からは、我々の要望を聞いたうえで費用を算出するとのことで具体的な金額の提示は得られず、この時は“腹の探り合い”的な訪問であり、金額については後日の連絡を待つしかなかった。実は、準備段階で紹介されていた現地の法律事務所から弁護士にも同行してもらっていたので、あとのやり取りについては、それを託すこととした。 続いて、世界貿易センター79階にある東京都のニューヨーク事務所を訪れた。東京都からは、2000年5~6月にニューヨークでコンサートを行うことについて後援名義を使用させていただけることについての承認を得ていた。そ
の上で、ニューヨーク市への協力要請もしていただいており、大変力強い支援であった。今(2015年10月)は、東京都都市整備局総務部長に就いておられる今村保雄氏が、当時はニューヨーク事務所で渉外を担当しておられ、氏がニューヨーク市姉妹都市事業部事務所(The Sister CityProgram of the City of New York)へ同行してくださり、所長のHenrietta Lyle氏に紹介していただいた。国連本
部の向かい側にあるこの事務所が入っているビルは、他のどこよりも出入りの安全検査が厳重であったような気がする。この後、国連経済開発部や職員合唱団などを訪問し、いよいよコンサート開催へ向けての弾みがつき、元気づけられて第1次現地打ち合わせを終えた。 社の業績は好転しないまま年を越した。何とか立て直さなければと必死に様々な策を講じ、N金庫へ幾度も掛け合ったが、事態はさらに悪化していった。このままでは、現在請け負っている業務にも破綻をきたすことが懸念されたが資金繰りの可能性はなく、行き詰ってしまった。断腸の思いで自主閉鎖への道を選んだのは、1999年1月末であった。ひと頃よりは少なくなっていたが40余名の社員と家族を含めると百数十人を路頭に迷わすことになり、その責任は計り知れなかった。敗北の道は何とも辛いもので、改めて思い出したくはないがそれでも最後の決意は次のようなものであった。①現在、ご旅行中のお客様は最後まで契約を完全履行すること、②社員への退職金は最大限支払うこと、③出入り各社への支払いは履行すること。 止む無く金融機関への債務については、弁護士に立ってもらい残余財産と債権を回収し可能な限り債務履行をすることで折り合いをつけてもらうことであった。針の筵のような日々が続き、社で夜を明かすこともあり、5階の窓から下を見ると、このまま身を委ねれば楽になるかもしれないなどの思いをしたこともあった 。窮状を知った姥山代表と事務局長の山本良夫氏は深夜まで私の話に耳を傾けてくださった。他にもそのような例はたくさんあり、自分たちも厳しい思いをしてきたなどの話をしながら激励してくださった。あの時の心づかいは今も忘れない。一カ月後の2月28日、39年の歴史、自
身にとっては31年余勤めた明治航空サービス株式会社の幕を下ろした。自身は、社を閉めるにあたり諸費でかなりの借財を抱えた。しかし、これは自らの責任であり、塗炭の苦しみを味わいながら、数年後までには完済した。共に苦労してきた社員には恨まれているであろうし、それ以後は数名と年賀状を交換しているが往来はほとんどない。社が一番元気であったころ社員旅行に行ったときの屈託なく笑顔いっぱいの写真をみると心が痛む。 自主閉鎖せざるを得ないという事態に陥り、社と併せてニューヨークでのコンサートの行方については申し訳なさでいっぱいであった。ニューヨークから戻って数日後にM事務所から、カーネギーホールの使用が2000年6月4日に暫定的に決まったと連絡があり、そのための予約金、事務所関係諸費について見積もりなどが示された。コンサート実現へ向けて大きな前進があったが、その一方では肝心の取扱会社の不都合がコンサート開催へ向けてこれからの運営をダメにしてしまうという危機をもたらしたことになる。そのころのことを姥山代表が記念誌に書いておられるのでそれを紹介させていただこう。 「何ですって? 明治が?」今回のコンサートの事務局長小野 鎭さんは長年ゆきわりそうの国外旅行に関わり、卒なく障害者のための旅行を成功裡に終わらせた旅行の達人である。その彼が社長を任じている明治航空サービスを廃業せざるを得ないとのことだった。銀行交渉も含めてやることはいろいろやってみたが、マジメ、本気、やる気の彼の見通しが立たないと語る初めての悲痛な声は私の心にズンズンと重い石を投げ込むように響いてくる。毎日の電話のやり取りの中で実行委員会を開く。「まだ、助成金もどこからももらっていないし、皆からニューヨークの費用も集めていないのだから中止にしてもよいのでは?」という意見もある。そうだ、無理をすることはないのだ。なにもニューヨークのカーネギーホールでなくても日本の中で、または改めて年月を置いても良いかもしれない。『心配しないで小野さん、この計画は中止しても良いのですから』 『いえ、それだけは何とか続けてください。事務局をやらせてください。それが無かったら私は生きていけません』 彼は、その後、会社の処理をしながら遂にゆきわりそうに机とパソコンを用意し、本格的にコンサートの事務局長としての活動に入った。2年にわたる年月の精神的、肉体的な激務のお蔭か髪の毛が薄くなり、頭のつやがいや増した。しかし、以前の鋭い表情が優しい少年のような表情にさえなっていることに気づいているのは私だけであろうか。2年の歳月の後に会社の後処理も終わったとのことだ」 コンサート開催へ向けて実行委員会が結成されていたが、それはProject 2000実行委員会へと改組され、私はその事務局長として就かせていただいた。その頃の私には3つの顔があった。一つは、明治航空サービスの代表取締役であったことで社の自主閉鎖の後始末をすること、二つ目は、Project 2000実行委員会の事務局長としてニューヨーク・コンサート開催へ向けてフル活動すること、三つめは、旅行会社Kの嘱託として旅行業務を継続することであった。ゆきわりそうの温情で、手当をいただくことで糊口を凌ぎ、一方で従来までのお得意様から引き続き旅行業務のご依頼をされる方があり、それを担当させていただくことで借財の返済などに充てていった。地獄に仏とはこのようなことを言うのであろう。 実行委員会が機能し、M事務所とのやり取りは果敢であったが、提示された金額面と先方の仕事の進め方に今一つ信頼感が深まらなかった。結論から言えば、残念ではあったがMとの話を中断し、新たに紹介を得たNew York Symphonic Ensembleを主宰する高原守氏との話を進めることになった。ニューヨークの法律事務所と慎重に協議した結果でもあった。1年余り準備を進めてきたMとの話をご破算にして一から出直しの状態であった。1999年3~4月ごろのことであったが、しかしながらこの時は最初の時のような不安はほとんどなく、むしろ、さっぱりした気分での再スタートであった。(以下、次号) (資料 上から順に) l  在りし日の世界貿易センター この79階(*)に東京都のニューヨーク事務所があった。(1998/11/5)  (*)どちらの建物であったかは定かではない。 l  国連ビル ニューヨーク・コンサート開催のために、国連ビル本館の講堂始め周辺にある関連事務所をたびたび訪れた。(1998/11/4) l  往時の明治航空サービス一同(1992年頃)

                               (2015/10/27)

小 野  鎭