2015.11.03 小野 鎭
一期一会地球旅80「21世紀の平和を願って その3」

一期一会 地球旅 80

21世紀の平和を願って その3

1999年2月28日、社を自主閉鎖したあと、人気(ひとけ)の無い部屋には、山のような書類が残されていた。取締役であったS、総務部長K、経理部長Sの3氏と自分を加えた四人で成算の無い後片付けが続いた。個人情報保護を意識して、伺い書や計算書類は文字通り破り捨て、ビニールの袋がいくつも積まれていった。運び出しては、清掃事務所に連絡して処理してもらった。経理上の書類は会社処理が終わるまでは保管しておかなければならないので貸倉庫に預け、自分が直接かかわった営業記録や視察先資料などは段ボールに入れて自宅に持ち帰った。これらの書類はどうしても破棄する気になれず、さりとて再利用する機会があるかどうかは予想もつかなかった。しかしながら、いつかは何かで必要となるかもしれないし、役に立つことがあるかもしれない、そんな気分であった。狭い自室は段ボールで身動きも出来ないほどであった。その後、お得意様の中には、引き続き旅行について相談したいとか、ご用命くださるところもあり、これ等の資料は大いに役立ったし、昨年来書き始めたこの地球旅もこれらの資料が大いに役立っていることはこれまでも触れてきた。 机や椅子、ロッカーなどのオフィス家具は買い上げてくださる方もあり、とくにゆきわりそうでは、トラックを乗り付けて引き取ってくださった。これらで頂戴した代金は、会社処理に回させていただくことができ、とてもありがたかった。事務所の物理的な後片付けには、数週間かかったがその後は、本格的にProject 2000の事務局として、ゆきわりそうの事務所に通うことになった。そこには、社で使っていた椅子や机、さらにはロッカーまで収まっており、愛着を覚える一方で主が替わった事務所で仕事をすることで複雑な思いを抱きつつの再出発であった。 4月、来日中の高原守氏と、姥山代表と合唱団の講師などが中心となって具体的な計画について打ち合わせが行われた。5月にニューヨークを再訪し、現地での諸準備を進めることになった。また、肝心の旅行については合唱団員の一人で、元社員でもあったI氏が朝日新聞系の旅行会社に再就職していたという経緯もあり、この会社に取り扱いを依頼することになった。現地手配は昔から懇意であった北米ツアーズに進めてもらっていたのでこれをそのまま引き続いて契約してもらうことも条件としてのことであった。これまで旅行取扱はすべて自らやってきたが今度は旅行主催団体の事務局として旅行会社と対峙する立場になり、悔しい思いと同時に仕事を発注する立場を味わうという得難い経験をすることになった。ニューヨークへの参加希望者は、4月末段階ですでに京都や大阪など東京以外からも含めて150名を突破して、益々多くの期待と希望が寄せられていた。 5月17日に第2回目の現地打ち合わせに出かけたが、今回は前回と違ってより確実な訪問先が主であり、予定業務が目白押しであった。姥山代表と実行委員の一人である櫻井氏と私の3人であった。櫻井氏は、ニューヨークの法律事務所との足掛かりを作ってくれただけでなく高原氏とのコンタクトを得るうえで伝手を見つけてくれた人でもあり、貴重な存在であった。カーネギーホールは、世界でもっとも有名なホールの一つであるであろうし、数々の著名な音楽家が演奏した華麗な歴史がある。それを借りること自体、難事であると聞いていた。そこで、ホールの審査担当部門には、H法律事務所を通じて、これまでの合唱団の歩みを送り、今回の演奏会を開きたいという趣旨を入念に説明してきた。その甲斐あってであろうか、 正式に使用についての同意を得たという情報を得ていたのでホールを訪れる足取りも軽かった。今回も法律事務所から、担当のG.L.
Pan弁護士が同道してくれた。若手の女性であったがとてもやり手で頼もしい存在であった。ホールの予約事務所で代表がホールの利用契約書にサイン、そして、私は予約金として8,000ドル (約100万円)の旅行者小切手に署名してこれを支払った。この「第2次現地調査&打合せ」について姥山代表の旅日記には次のように記述されている。 カーネギーホール正式契約 5月19日、本日カーネギーホール、この手でサインして契約しました。8千ドルを支払い、ついに2000年5月31日は本決まりです。 この歴史的な瞬間を櫻井さんがパチリ。和太鼓、オープニングのハープ、絵画の展示OK、日本中、世界中のグループの中で外国からきて直接契約するなんて、ゆきわりそうぐらいしかないね。やったー! H法律事務所からの顧問料の仮請求は、ディスカウントしても約100万円。でも、直接契約が無ければ、普通は音楽事務所からこのくらいの手数料を請求されるであろうし、結果的には実態のある生々しい感動を得られたのですから、お金の面とハートの問題を合わせればプラスだったと考えるのが妥当でしょう。以下、略。 指揮者・オーケストラ決定
本日は、高原守氏と会談。指揮者高原守、オーケストラ NYシンフォニック・アンサンブルと決まりました。これで今回の目的の重要な部分は決まり。どのようにして2000余の席を埋めるかという課題に取り組み始めます。領事館の岡崎領事はとても熱心で好意的でした。今日は、朝日新聞、読売アメリカ、日本国連代表部、東京都NY事務所、NY姉妹都市プログラムを訪れます。以下、略。 5月22日 NY、アリゾナ、ネヴァダ、カリフォルニア、4つの州を駆け抜けてきました。900㎞の砂漠を越えてのドライブ、驚くべき大自然、先住民族の世界、グランド・キャニオン、それぞれの岩に世界の神々の名前がついています。地球創造と人類の歴史を肌で感じる旅でした。世界はホントに広い、未知のことが多い。皆さん旅をされるといいなあ、とお勧めします。以下、略。 5月25日 多忙な日々・大きな成果 今回の下見の特徴は前回と全く違い、第一には、NYの受け入れの方たちが思っていたより大きな興味と関心と共感を持っていてくださり、非常に現実的に取り組もうとしてくださっていること。読売、朝日、領事館、国連職員、Japanソサエティ、高原守&NYシンフォニック・アンサンブル、カニングハム久子女史、日本国連代表部、東京都NY事務所、NY姉妹都市プログラム、ホウグ法律事務所など。 第二には、高原氏がProject 2000 のために土日に雇用されるK女史は、感情豊かで実行力があり、NYでの活躍歴とあわせ、その感性と実務力を遺憾なく発揮してくださりそうで先ず良い結果が期待できるであろうこと、第三に演奏後の旅、宿泊施設については、すべてOKと言えます。 以下、略。 実行委員会事務局として本格的に動き出し、多忙な日が続いた。諸準備の中で次々に様々なアイディアが出され、その都度、事務局としてはそれへの対応に追われたが、その一つは、コンサート終了後の打上げ会の会場探しであった。そして得た場所はカーネギーホールから徒歩数分にある日本クラブであった。演奏会が終わるのは9時頃になるので、あまり長時間というわけにもいくまい。その打合せを行う一方、催物会場として使えるホールがあることがわかり、絵画展を開くことが提案された。2年前にフランスに行ったグループである。せっかくの機会だから、絵画にとどまらず、書道もということになりさらに関心が高まっていった。こうして、コンサートと並行して、「心で生きる仲間展」が開かれることになった。日本クラブをお借りすることで、在ニューヨークの日系企業グループからの支援をいただけることにもつながっていった。
もう一つは、コンサートが、東京・ニューヨーク姉妹都市提携40周年記念事業の一つとして位置づけられたことであった。これは我々が準備を進めていく上でさらに勇気を得ることができたし、東京国際交流財団はじめ東社協や豊島区など団体や自治体などの助成あるいは後援をいただくうえでとてもう れしいことであった。 こうして1年後のコンサートへ向けて、合唱練習は勿論、現地との細かいやり取り、後援や助成団体への膨大な書類作成、募金活動など目の回るような忙しさが続いた。勿論、その間にも、会社を閉鎖した後始末、旅行業務などもあり、文字通り三つの顔での仕事が果てしなく続く日々であった。自主閉鎖をしたという自己嫌悪感や心の落ち込みは大きかったが、姥山氏や山本氏始めゆきわりそう関係の支援、ニューヨークでの公演準備、いくつかの団体やお客様のご愛顧、そして家族の支えがこの時期を乗り越えさせてくれた。いまも感謝の気持ちでいっぱいである。 (資料 上から順に) カーネギーホール利用契約を終えて (左から姥山代表、Cホール 予約担当部長、小野、桜井氏 1999/5/19) 高原氏との打ち合わせ (右端が高原守氏 1999/5/20) ニューヨーク姉妹都市プログラム事務所にて (後列左から 東京都ニューヨーク事務所長 中村晶晴氏、T.ベーレント所長、 櫻井氏、H.ライル部長、今村保雄氏、前列 姥山代表、小野 1999/5/19)

(2015/11/03) 小 野  鎭