2015.11.25 小野 鎭
一期一会地球旅83「祈りのコンサート」

一期一会 地球旅 83

祈りのコンサート

またパリで、そしてアフリカのマリ共和国でテロによる惨劇があった。今年春先にも起きており、フランス始めトルコやアフリカ各地などで不幸が続いている。IS (Islamic State) イスラム過激派を主とする組織が為しているものだといわれているが西欧社会と文化との間で確執が繰り返され、次第に激化して今日に至っているということであろうか。 恐怖は止むことなく今後も続くであろうと不穏な予測がなされている。 2000年5月、私たちは心で歌う目で歌う合唱団はニューヨークのカーネギーホールで行ったコンサートを通して、21世紀の平和を祈るというメッセージを送った。このホールの利用契約書の条文の中に、この契約はこの地が戦争若しくはそれに類する状態に陥ったときは利用できないこともあるという文言があり、そのときは、ほとんどそんなことが起き得るなどとは考えもしなかった。しかしながら、それから1年数か月後の2001年9月11日(日本では12日)、ニューヨーク、ワシントンDC、クリーブランドなどで同時多発テロが起き、世界中を震撼させた。私は、このニュースをオーストラリアのタスマニアで知った。それより2年前にそれまで勤務していた会社の自主閉鎖を余儀なくされ、その処理をしながらNPOゆきわりそうに勤務していた。 一方
でK社に嘱託として身を置きながら旅行業務を行い、年に数回海外への添乗も続けていた。その一つとして全国老人給食協力会のお世話をさせていただき、 タスマニア州都のホバートを訪れていた。9月12日の朝、レストポイント・ホテルでテレビのスイッチを入れたところ、突然画面いっぱいにニューヨークの世界貿易センター(WTC)に旅客機が突っ込み、無残に崩れ落ちていくという衝撃的なシーンが映っていた。瞬間、悪い冗談かと思ったが、それから間もなく二本目のビルも同様崩壊さ せられるという新たな惨劇が起きていった。驚いて、部屋のドアを開けると廊下には目を覆いたくなるような悲惨な光景を紙面いっぱいに報じた新聞があった。同時多発テロ事件が米国で起きたことを知った。 全豪食事サービス会議(AMOWA会議)は米国で起きた同時多発テロで犠牲となった人々へ哀悼の意を示す黙とうから始まるという予想外の展開であった。ニューヨークのコンサートは東京・ニューヨーク姉妹都市提携40周年記念事業の一つであり、21世紀の平和を祈るメッセージを送ったがその願いは空しく踏みにじられた気分であった。後援していただいた東京都のニューヨーク事務所はその少し前まではWTCの79階にあったが、コンサートが開かれる頃にはその役割を終えて別の場所に移っておられたし、それから間もなく事務所そのものが引き払われていた。もし、そのまま事務所があったらきっとこの悲劇に巻き込まれていたであろう。このビルには、日系企業などの事務所も多数入居していたし、94階にあったレストランや展望階にもたびたびお客様を案内していたので、個人的には、エンパイア・ステートビル並んで数ある摩天楼のなかではひとしお馴染みのある建物でもあった。それだけにいっそう強いショックを受けたことは今も忘れない。 オーストラリアから戻って、最初の仕事は10月に予定されていた看護事情視察団の派遣延期に伴う善後処理であった。アメリカ旅行を予定していた多くの個人や団体が出発を取りやめたり、延期を余儀なくされるところが多かった。弔意を示すメールも送ったし、多くの友人や協力団体へお見舞いの手紙を書いた。合唱団では、ニューヨークへ見舞金を送ろうということになり、そのためのコンサートを開くことになった。会場は、池袋にある東京芸術劇場、オーケストラは、数年前から応援していただいている指揮者佐藤寿一氏が核となって個人・団体とを問わず演奏家各位に協力を
呼び掛けてくださり、多くの方々が出演料なしで引き受けてくださることになった。こうして、「21世紀の平和のために“祈りのコンサート”ニューヨークの友へ」が2001年10月27日に行われた。曲目は、サミュエル・バーバーの“弦楽のためのアダージョ”そして、ベートーヴェンの“第九交響曲 合唱付”。テロで犠牲になった方への祈りに「歓喜の歌」は相応しくないと思われるかもしれないが、“Alle Menschen werden Brüder“ すべての人々は兄弟になる、という歌詞を通して人々に連帯を呼びかけたのであった。 このコンサートを開くことについての趣旨を説明し、参加と協力を呼びかける過程にあっては、なぜ、ニューヨークでのテロの犠牲者だけに対してなのか、同時多発テロを誘発した原因の一端は、アメリカ自身にあるのではな
いか、これまで行ってきた中東やアフガンへの派兵、これ等の地域や国々から出現している難民などへ目を向けることも必要ではないのか?と疑問を呈する人もあった。私たちは、イデオロギーについて議論することはこの場では望ましいことではないと、敢えて強く呼びかけることはしなかった。ニューヨークでコンサートを開くために多くの人たちが支援してくださったことは事実である。多くのNY市民が恐怖を味わったことは間違いないし、犠牲となった方や関係者が巻き込まれたかもしれない。とは言いながら、平和と連帯を呼びかけることの難しさを覚えたのもこの時であった。
祈りのコンサートは成功を収めることができた。そして、200万円近くの尊い善意が寄せられた。NY姉妹都市プログラムの事務局に相談した上で、同時テロで殉職した多くの消防士たちの遺児を激励する基金があり、そこへ1万ドル強を贈った。さらに国連難民救済高等弁務官事務所(UNHCR)およびアフガニスタンで長年医療活動を行い、井戸を掘って飲み水を確保するなどの地域活動をしておられる組織へこれを贈った。 アメリカを再訪する機会はその翌年、2002年秋であった。同時多発テロの勃発で止む無く延期されていた看護事
情視察団を案内して、ニューヨークを訪れることができた。1年余りが経過した後、WTCのあった一帯は、Ground Zeroと呼ばれる巨大な跡地になっていた。依然としてたくさんの人たちが祈りを捧げていたし、周辺のビルには、”The Bravest of the Brave FDNY” 「もっとも勇敢な人々 ニューヨーク消防隊」に捧げる感謝と追悼のポスターが貼られていた。そして、エンパイア・ステートビルから眺めるダウンタウン一帯の摩天楼街には、いつも見慣れていたWTCの二本のビルの姿が無く改めて寂寥の思いもひとしおであった。   (資料 上から順に) 攻撃されるアメリカ(Mercury紙 2001年9月12日 豪州ホバートにて) 祈りのコンサートの紹介   (読売新聞 2001年10月3日) 往時のNYダウンタウンの摩天楼  (2000年3月) その後のNYダウンタウン     (2002年10月) 勇者の中の勇者 FDNY(殉職した消防士への感謝と追悼のポスター(2002年10月撮影)  

(2015/11/24)

小 野  鎭