一期一会地球旅85「アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会 2」

一期一会 地球旅 85

アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会 その2

2002年3月、再度の現地調整のため、単身ソウルを訪問、合唱団の練習などの様子などもお聞きしてみた。Prof. Wooとイ女史の奮闘で障がい者施設の入所者や合唱団などがそれぞれ懸命に練習していることがわかった。オーケストラやプロ声楽家などの出演料、会場借り上げや広報、様々な受け入れに要する費用の捻出については大手の企業や様々な関係先への協力要請で動いているとのことであった。ケンチャナヨ(大丈夫、問題ありません!)は文字通り実行されていることを知り、うれしかった。日本側では、日韓文化交流基金、東京国際交流財団始め諸団体の助成や航空会社、韓国にある日系企業からも支援していただけるよう私たちも積極的に行動した。日韓国民交流年、そして豊島区制施行70周年の記念事業として位置づけられたことは大きかったし、在韓日本国大使館はじめ東京都などの後援も得られることはこの事業を公的に認めていただけることで大変ありがたかった。

1旅行団の受け入れについていえば、宿泊施設は当初から聞いていた教育文化会館、少し堅苦しい名称でソウル市の都心からは離れているが、瑞草区(ソチョグ)にある。一帯は緑地も多く、芸術の殿堂(コンサート会場)などへもバスで15~20分くらいと思われ中級クラスの大型ホテルといった佇まいであった。韓国のホテルで具合がいいことは、洋室とは別にオンドル房(バン)があり、家族や少人数グループで宿泊できることであった。市内での移動については、普通の大型バスのほかに、リフト付きバスも2台ほど準備していただけるということであった。イ女史からは韓国内での陸上移動はほとんど現地側で準備して経費も負担することと聞いていたのでできるだけ多くの希望を伝えて、あとはお任せした。勿論、現地の旅行会社にも相談して話が進められていたようであった。会場については、ソウル、水原(スウォン)それぞれの舞台図面などを入手して、これを合唱講師陣に提示して団員の配置などを考えてもらうことにしていた。とはいっても、韓国側の出演者数や車いす使用者数などは不明であった。日本側の構成と希望をProf. Wooに伝えて後はお任せすることにした。

もう一つ、気になっていたことは二つの演奏会の間に、春川(チュンチョン)への1泊2日の小旅行であった。これは鉄道で行き、斗山(トザン)リゾートというホテルが手配されているとのことであった。今回も宿泊手配は、日本での旅行会社ではなく、NPOゆきわりそうと韓国側の協力でこれを進めていた。当時、宿泊費はニューヨークなどよりはずっと安かったのでこれは有難かった。さらに嬉しいことがあった。ソウルでは、誠信(ソンシン)女子大学校、そして、春川では国立江原(カンウォン)大学校でそれぞれ日本学科の学生が現地滞在中は通訳ボランティアとして協力していただけるということであった。韓国関係者への紹介をしてくれたT女史の伝手で、前者は奥村裕次講師、後者は黄昭淵教授が趣旨を理解して学生諸君に呼びかけてくださり、学生諸君も大いに興味を示しているとのことであった。多くは女子学生らしいがとても楽しみであったし、有難い協力の申し出であった。

再度の打ち合わせと確認を終えて東京に戻ったが、実際に多忙であったのは、むしろそれから出発までの2カ月余であった。ニューヨークの時もそうであったが、最後の詰めは、参加者への各種費用の請求と旅行や現地滞在費の確認と払込み、コンサート会場、人数調整、プログラム掲載内容など膨大なエネルギーを必要とした。加えて、今回は水原(スウォン)とソウル二回の催しである。両方に出演する人、あるいは前者か後者のいずれか一方に出る人、そして応援団として旅行に参加する家族やスタッフ他関係者もあり、調整と確認など多くのことが輻輳していた。出演者ということから言えば、韓国側も多分そうであったと思われる。主催団体名や組織の代表者、指揮者や声楽家などソリストや団体名などは最終段階でやっと見えてきたが、各合唱団の所属メンバーの名前などはおよそ確認できなかった。従って、プログラムには、個々の名前は付されていない。日本からの旅行団は、基本コース、短期第1班、同第2班、他に現地へ直接駆けつける人など様々な形があった。

2
佐藤寿一氏と筆者は旅行団より数日早くソウルへ向かった。佐藤氏は、水原で指揮をされるのでオーケストラやピアニストなどとの事前練習が予定されていた。私は細部にわたっての最終調整が必要であった。そこで、驚くべきことが一つあった。イ女史から、春川までの交通手段については、往路は鉄道で行くと聞いていたが、これをバスに変更させてほしいとのことであった。春川はソウルからは約75㎞、2時間半くらいの距離であり、筆者は当初から鉄道よりバスで往復するほうが効率的である。3費用の面からも経済的だと思うのでそれを勧めていたが、イ女史は、鉄道の方が皆さんに楽しんでもらえるであろう、との主張であった。前述したが、現地側の陸上交通費は、韓国側で負担していただけるとのことであったので、それは任せるしかなかった。しかし、経費面からであろうかそれともソウルと春川両方でバスをそれぞれに準備しなければならないし、鉄道の場合は、両方で乗り換えも生じて時間的にもあまり得策ではない、などの結論であったのだろう。今となっては、理由はどうであれそれに従わざるを得ない。4月18日に、日本からのグループが到着した段階で、皆様に事情を説明して了解してもらうことにした。

水原でのコンサートに備えての準備は、まさに土壇場の最終調整で合唱団としての希望が叶えられたと思う。ソウル到着後の翌日、リハーサルのため、2台のバスに分乗して水原に向かった。バスには、誠信女子大学校の学生数名がボランティア通訳として早速加わってくれた。アンニョンハセヨ! おはようございます!などの言葉が飛び交い、1時間余り、京畿道文化会館に到着する頃にはバスの中は明るく笑い声と楽しい会話が続いていた。その中には、ベ・ソンヨン、イ・ユジン嬢などもいて、大変力強い存在となっていった。彼女たちはこのあと後年まで大きな存在となっていった。

4会館では本番を想定して山台などを準備してもらうことになっていたが、それは期待に沿うものではなかった。実は、ニューヨークでの大きな反省があった。合唱団は、障がいのある人たちが大きな存在であるが、車いす使用の人たちも多い。ところが、舞台上では、オーケストラと合唱団の間に挟まれて座っているため、客席からはその存在が殆ど見えない状態であった。山台を重ねてその上に並ばせることでそれを叶えることができるはずであるが、危険であるとか、消防上の規則に抵触するなどの理由をつけられて私たちの主張は叶わず、カーネギーホールでは悔しい思いをしていた。 その再来は絶対に避けなければならない! と今回は、韓国側舞台マネジャーなどに強く申し入れ、山台を急遽増設してもらうことにした。 水原での練習の後、その交渉や準備のための議論と行動は夜に至るまで続き、講師陣や事務局員が帰還したのは深夜に近かった。5翌日、会場に入ってみると、舞台上には、山台が増設されていた。舞台上の団員配置と整列はほぼ希望に沿った構成となっていた。 土壇場の交渉が奏功して「終わり良ければ総てよし」がここでもまた起きたような気がする。

こうして、2002年4月20日夕方、「アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会」水原(スウォン)コンサートが始まった。日本からのサポーターや京畿道各地、あるいはソウルから訪れた人々、そして施設関係者や家族、などで会場はほぼ満員であった。第1部の幕開けは、韓国の太鼓グループの熱演に圧倒されたが、つづいてゆきわりそうの和太鼓と大正琴グループも見事な演奏をした。第2部、第九交響曲の合唱では韓国のメンバーや市民合唱団などの多くは初めての経験であったと思うが、みんな力いっぱい歌っていた。61年前、急に始まった韓国でのコンサート計画であったが、Prof. Wooと李銀景(イ・ウンギョン)氏という協力者を得たことにより超スピードで準備が進められた。様々な意見の食い違いや思わぬハプニングなどが幾度も起きたが何とかここまでやってくることができた。日本と韓国の重度の障がいを持つ人たちが集って、「歓喜の歌」を歌うという願いがかなえられた。多くの人が喜びと勇気を覚えたことであろう。そして、日本の「故郷(ふるさと)」と韓国の「故郷の春」がそれぞれのことばで会場いっぱいの大合唱となりコンサートは終わった。そして参加者全員での交流会は大変な盛況であった。笑顔と喜びにあふれて日本語、韓国語、そして英語が飛び交い、Vサインを交わしながら写真を取り合うグループがそこここにあった。コンサートが終わり、午前様に近い時間での帰館であった。7

(資料 上から順に)

教育文化会館 (馬場俊一氏 描く)

リハーサル風景(佐藤寿一氏)

アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会 携行用旅程

アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会 プログラム

ゆきわりそう 和太鼓・大正琴教室のメンバーによる演奏

右から禹光赫教授(Prof. Woo Kwang-hyuk、李銀景氏(Ms. Lee Eun-geon)、姥山代表、小野

アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会 水原(スウォン)(2002年4月20日)

(2015/12/07)

小 野  鎭