2015.12.16 小野 鎭
一期一会地球旅86「アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会 3」

一期一会 地球旅 86

アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会 その3

水原(スウォン)でのコンサートが無事終わり、短期第1班は翌日午後には帰国という慌ただしさであったが楽しい思い出を携えて帰路に着かれたと思う。私事で恐縮であるが、この時は、家人も合唱に参加していたし次男も応援に来ていた。加えて、故郷(福岡県飯塚市)在住の母が妹と共に聴きに来てくれた。板付からソウルまでは東京よりも近い距離であるが、母にしてみれば、初めての海外旅行であった。戦前、釜山(プサン)近くの鎮海(チネ)に住んでいたことがあり、その後、日本に戻って横須賀で私が生まれている。鎮海は軍港としても知られており、横須賀にはかつて鎮守府があった。海軍軍人であった父はもうずいぶん昔に他界しているが、私を命名するにあたっては多分そんな理由があるのだろうと思う。鎮海ではなかったが、母にしてみれば一度は韓国を訪ねたかったのであろう。そんな母の短い滞在ではあったが、コンサート開催の事務局担当である自分には個人的な時間はほとんどなかった。到着時に金浦空港まで迎えに行けたことをわずかな親孝行として自分自身へ言い訳していた。86歳の母が来てくれたことはとてもうれしかった。母が旅立ってすでに5年になるが、父に韓国へ行ってきたことを話しているかもしれない? メイングループの多くの人たちは休養したり、ソウルの市内見学や買い物などに楽しい一日を過ごされた。誠信(ソンシン)女子大の学生たちが通訳ボランティアとして案内してくれたことでとても有意義な時間を過ごすことができたと好評であった。そして、その翌日は、春川(チュンチョン)への1泊旅行、先にも述べたが、当初は鉄道で行くことが予定されていたが、これはバス2台を連ねて出かけることになった。このことは、旅行団到着時にすでに事情を説明して了解を得ていたので混乱はなく、大都市ソウルからのどかな江原道(カンウォンドウ)への旅はむしろ期待が大きかった。とは言え、日本の旅程管理という観点からはおよそ考えられないことであった。手元に残っているこの時の携行旅程には、4月22日、ソウル(清涼里駅)~春川 列車で移動(約2時間)と記載されている。当時のソウル~春川には高速道路はまだなく、いくつかの町や田園地帯と丘陵地を抜けて2時間余りのドライブ、初夏間近で緑濃く花々が咲き乱れた美しい風景が広がっていた。コンサート後の懇親会などで歌おうと練習してきた「故郷の春」の歌詞そのもの、まさに災い転じて福となった、そんな言葉さえ当てはまる嬉しい変更であったといっていいかもしれない。
江原道の道都である春川は北漢江の上流、衣岩(ウィアムホ)ダムでできた同名の湖に面した人口20万余の町。道庁始め国立江原大学校のキャンパスや美しい街路などがあるこじんまりした町であった。湖畔に面した斗山(トザン)リゾートに宿泊、夕方は春川市や江原道社協始め地元関係者による大歓迎があった。夕食会後のアトラクションでは、芸大のProf. Woo と彼の仲間たちのバンドが素晴らしい演奏をしてくれ、舞踊科の専攻生が優雅な古典の舞を見せてくれたのも印象的であった。春川では、江原大学校の日本学科の黄昭淵教授や学生の皆さんが通訳ボランティアで加わり、大歓迎していただいた。学生有志は、その後、夏休みに黄教授が同行してゆきわりそうを訪問して2週間余り過ごすプログラムが始まった。春川での滞在は短期間であったが、現地の人たちとのふれあいを大いに楽しみ、ソウルへ戻った。そして、
「芸術の殿堂」でのコンサートが開かれた。ここで は、ソウル勢が張り切り、首都圏にある障害者施設や市民合唱団、ソウル在住の日本人なども加わって「歓喜の歌」合唱を通して平和への願い、そして、人々の連携を呼びかけた。こうして「アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会」は水原とソウルの二ヵ所で行われ、大成功を収めて終了した。ニューヨークから2年後、しかもきわめて短期間のうちに準備が進められてあわただしい日々の明け暮れであったが、お隣の国、韓国の人々との草の根交流が始まったことはとても意義深いことであったと思う。今回も様々な出来事があったが、コンサート後に発行された「思い出の記」に寄せられた幾人かの感想が当時を懐かしく思い出させてくれる。

美しいチャレンジ、フロイデ! 嬉しい心でなくては歌うことのできない歌、合唱交響曲。頭も腕も足も自分の思い通りには動かすことができませんが、彼らは顔いっぱいに天使の笑みを浮かべ、一生懸命歌っていました。笑って泣いて、教えて習って、何がどう違うのかわからなくても、教える先生と喜んで習う子どもたち。愛の教室には魂の歌が響き渡っています。 “ダイネ ツァウベル ビンデン ヴィーデル”冬の間一日も休まず、数千回は歌った歓喜の歌です。すでにリハビリテーション施設の窓の外にもサクラが咲き、白い花びらが歌に耳を傾けています。ひと言、ひと言、先生の口のかたちから学び始めた“ダイネ ツァウベル ビンデン ヴィーデル”がいつの間にか歌に変わっていくことが、彼らの新しく生まれた楽しみです。 (中略)

これまでご苦労して下さった各リハビリテーション施設の先生と、彼らの声を感動の歌に変えてくださった韓国国立芸術学校の禹光赫(ウ・カンヒュク)教授、特別出演して下さった金徳洙教授、テノールのチェ・スングォンさん、ホン・チャンジン神父、㈱POSCOの皆様と京畿道文化財団に深く感謝申し上げます。また、出演して下さった障害を持つ音楽家、オーケストラ、合唱団の皆様、ゆきわりそうの姥山代表、小野事務局長にも感謝申し上げ、特に本日を成した韓日両国すべての障害者の皆様の美しいチャレンジに熱い感謝と愛の拍手を送ります。お世話になったボランティアのみなさま、ありがとうございました。

障害者のための愛の声インターネット放送 専務理事 李 銀景(イ・ウンギョン) (原文 ハングル 訳 戸田志香)

キョンフィ 名前を聞いてもキョンギ、年を聞いてもキョンギ、 キョンフィは僕の友達の名前です

コスモスが美しく咲いていた日、
リハビリテーションへの花の道で初めて会ったとき キョンフィは花びらを口にくわえていたっけ キョンフィは花が好きかい? 手で触ってすぐに手折られたコスモスを 花壇に捨てて キョンフィは空を指しました 空には雲ひとつなく、空を指した キョンフィの手には、指がひとつも無かったのです 名前を聞いても、歳を聞いても、 キョンギだと 答えるキョンフィ そのとき、僕の目には キョンフィが一本の花に見えました

韓国国立芸術学校 舞踊院 教授 禹光赫(ウ・カンヒュク) (原文 ハングル 訳 戸田志香)

皆さんへ感謝を込めて 鎮海に住んでいた思い出もあるのでこの度の愛の音楽会を聴きに行くことになりました。次女菊子と。私は杖などついて86歳になって。菊子は、兄ちゃん来んね、と何度も言っていましたが何分か過ぎたころ、鎮の姿を見た時は涙が出るほどうれしかった。ゆきわりそうの子供さんの付き添いのお母さん方と食事をしました。 大型バスに乗って町など見学に行くとき、乗るときは大変。いつも健ちゃんが車いすの世話、私の後ろの席に乗ってくれていました。 愛の音楽会、そして最後にバスの運転して下さった方は私どもが食事しているときにレストランで挨拶されて先に出られ後姿を見送りながら胸が熱くなりました。健ちゃんもその後の飛行機で東京へ戻りました。私も菊子とお土産の荷物を忘れないようにと注意して福岡へ帰りました。 愛の音楽会に行くことができてずいぶんお世話になりました。深くお礼を申し上げます。 姥 山 寛 代 様

小野モリ子

韓国での2度のコンサートを終えて姥山代表はその感想とそこから生まれた新しい活動についてのゆきわりそうニュースへ一文を寄せておられる。それは次号でご紹介させていただこう。 (資料 上から順に) 春川・斗山リゾートにて 「韓国の春を描く」  馬場俊一氏 描く(2002/4/23) ソウル・芸術の殿堂でのコンサート (2002/4/24) 李・銀景女史と (2002/4/20) 詩「キョンフィ」  愛の音楽会 プログラムより 禹光赫教授 水原の京畿道文化会館にて 前列 左から大島さん、母(小野モリ子) 後列 右から健介、新明さん、菊子、ほか(2002/4/20)

(2015/12/14)

小 野  鎭