2015.12.22 小野 鎭
一期一会地球旅87「アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会 4」

一期一会 地球旅 87

アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会 その4

韓国でのコンサートは準備期間が短く、苦労も多かったが大きな成果を収めることができたと思う。加えて予期せぬ副産物も生まれ、新たな国際交流につながっていった。それらについて、姥山代表が感想などを書いておられる。それらを引用させていただこう。 愛のコンサート  2002年4月20日&24日 「21世紀の平和のための第九コンサート」が終わった直後、NY市の姉妹都市プログラムの代表から、「次はどこで?」と問われた時には咄嗟のことで返事ができなかったが、2002年4月20日と24日に韓国の京畿道水原(スウォン)とソウルで「アジアの平和のために」のコンサートが実現、そして今それも終わった。1990年4月29日の第1回コンサートから「私たちは心で歌う目で歌う合唱団」は障害を持つ仲間を中核として10年余り第九を歌い続けてきた。国外では、ドイツ、ニュージーランド、ニューヨークなどでの演奏会、いずれも国際交流として成功している。 今回の韓国での催しは、日韓国民交流年、豊島区制70周年記念の事業として取り組まれた。
特に今、世界中の耳目を集めているサッカーのワールドカップ前哨戦として韓国側の力の入れ方は迫力のあるものだった。国外の演奏会では、いつも現地市民との共演をすることで市民交流となったが、今回の大きな特徴は60名に及ぶ第五パートを歌う韓国の障害者と共演できたことだ。故新田光信先生が作られた第五パート挿入の楽譜を学習し、日韓の障害者たちが「すべての人々よ、兄弟になろう」と全身で歌う声はどれほど多くの人々に切々と伝わったことであろうか。涙と共に拍手を送る会場の方々と、最後は韓国の「故郷の春」と日本の「故郷(ふるさと)」を韓国語と日本語で歌った。大き
などよめきと、涙と拍手のなかでこのコンサートが終わった時、私たちは、近くて遠かった韓国の方々と抱き合い、身内のようにあたたかくやさしい共感の涙を流した。国サイドでは多々ある中で起こる事例も、草の根の市民交流の場では、血の通い合う友情に満ちた、親近の情が通い合うことを実感した。「愛の音楽会」“Love Concert”とはちょっと気恥ずかしい名称ではあったが、確かに愛のコンサートにふさわしかったと今は思っている。 (中略) 言葉のわからない私たちのために、韓国の二つの大学の日本学科の学生たちが大勢ボランティアとして参加したが、その学生たちが7月、8月にはゆきわりそうに研修旅行でやってくる。具体的な交流が、今、始まろうとしている。実り多く、思い出深い今回のコンサートを機に、日韓国際交流にふさわしいゆきわりそうの幕開けが始まろうとしている。たくさんの方にお世話になった。多くの方と共感した。平和のために歌う私たちの第九が、また、一つ新しい芽を出したと、私は思っている。  (2002年6月8日 姥山寛代 記) つづいて、「思い出の記」の末尾に姥山代表は、次のように書いておられる。 おわりに、 7月15日、成田空港に、韓国の江原大学と誠信女子大学の学生14名が、黄先生と降り立った。これから2週間、ゆきわりそうで研修することになっている。第2陣は、8月6日から13名の学生と奥村先生、そして障害を持つ青年と李女史が来日された。 約一か月間、ゆきわりそうは韓国のきれいなお嬢様方の訪問で花が咲いたようであった。障害を持つゆきわりそうの仲間たちは嬉しくてうれしくて「なぜ? なんなのよ」とスタッフを羨ましがらせるほど、新鮮な驚きと愛をふりまいて、1ヶ月が過ぎ、ある日、風のように去っていってしまった。夏の終わりは、火が消えたような気分。 花火でやけどをした人、風邪をひいて熱を出した人、公園で財布を忘れて無くした人、いろいろあった。名前がなかなか覚えられなくて大変だった。 (中略) 第1回目の交流は、「また来てね」「また来るね」との涙の別れをするほどの友情を育てた。第1回目なのでいろいろな行き違いもあったが、第2回目からはもっと良い交流になることを信じている。4月のコンサートまでは見も知らなかった韓国の学生と同じ屋根の下で食し、語ることができた。愛のコンサートは、こうして国際交流の1ページを開いたのだ。得たものは大きかった。 すべてのことにカムサハムニダ(ありがとう) (2002年8月 姥山寛代 記) こうして韓国で通訳ボランティアとして動いてくれた大学生たちは、その年の夏にゆきわりそうを訪問、そして冬にも来るようになり次第に定例化していった。ゆきわりそう滞在中、学生たちは障がい者の人たちの日常生活の様々な動作(ADL)にスタッフと共に関わることで障害者サービスを学ぶ一方、夏合宿や年末年始など
様々な行事に参加して日本の風俗習慣にも親しみ、日本文化を学ぶことにもつながっていった。彼らが帰国後に寄せてくれたメッセージは、都ともほのぼのとする温かみのあるものであった。合唱団の一人である春山さんはご令姉とも学生たちが学んでいる春川(チュンチョン)はとても関わりの多いところだそうで一層関心も高く、毎年自宅に招いてお茶会を催してくださった。学生たちからはこのことがとても印象深かったと語っていた。日本での生活体験などから、自分たちが教わってきた日本とのかかわりが必ずしも正しくないこともあるのではないかと思ったと語る学生もいた。中には、帰国した後もWorking Holiday 制度を利用して来訪し、ゆきわりそうの様々な事業所でアルバイトをしながら日本語学校で勉強する学生たちもあった。 回を重ねるごとに主力は江原大学校に移っていった。
同じころ、日本では韓国のテレビドラマ「冬のソナタ」が放映されて話題となり、韓流ブームが巻き起こった。主役のペ・ヨンジュンとチェ・ジュウという2大スターなどへのファンの熱狂ぶりは韓国人も驚くほどであった。江原大学校は、冬ソナの前半部分の舞台である春川(チュンチョン)にあり、ゆきわりそう利用者や合唱団のメンバーにも関心が高まっていったのかもしれない。 ゆきわりそうの充実した受け入れと日本学科の黄昭淵教授
のお骨折りで学生たちの来訪は、授業の一環である奉仕活動プログラムとして大学で公的に位置づけられるようになっていった。そこで、ゆきわりそう側(社会福祉法人 地球郷)と大学側で学生たちの受け入れについて契約することになった。2008年春、そのための契約式が行われることになり、数年ぶりに春川を訪れた。早春の春川一帯にはあちこちにまだ雪が残っており、湖を渡ってくる風は冷たかったが、大学本部で行われた協約式は暖かい雰囲気にあふれていた。大学での協約式が終わり、春川市内を少し回ってみた。かつて冬ソナのロケ
地であった場所があちこちにあり、そのことを書いたポスターが貼ってあったり、標識が立てられているところもあった。すでに色褪せたものもあるが、ひところは、日本からの熱烈なファンが連日押しかけて大変な賑わいであったと聞いている。写真を撮るのも一苦労であったらしい。今は、兵どもが夢の後、とでもいうのであろうか、静かな佇まいであった。 学生たちの来訪は、2013年頃まで続いたようであるがこれまでの来訪者数は、200名くらいになっているであろう。多くの学生が卒業して、大企業に入ったり、日系企業や日本とかかわりの深い仕事をしている人も多い。法律事務所で翻訳業務に就いている人もあるし、結婚して幸福そうな写真をメールで送ってきている人もある。政治の上では、微妙な関係にある日韓両国ではあるが、ゆきわりそうで学んでいった学生諸君が自国で、あるいは日本において様々なかたちで活躍しているであろうことを思うと、草の根交流がはたしてきた役割には大きな意義があったであろうと確信している。
(資料 上から順に 敬称略) 愛の音楽会 (Love Concert)  京畿道文化会館 (2002年4月20日) 現地の青年と(真ん中 北原) 春山さんのお宅に招かれて 春まだ浅き春川(チュンチョン)の町 大学生 奉仕活動支援 協約式 (江原大学校 総長と) 江原大学校 キャンパスにて 左から 小田切、姥山代表、黄昭淵教授、松本、小野) 冬ソナ ロケ地 (春川郊外 南怡島ナミソムの並木道) 学生たちのメッセージ  

(2015/12/21)

小 野  鎭