2016.01.06 小野 鎭
一期一会地球旅89「旅行業専門学校にて その1」

一期一会 地球旅 89

旅行業専門学校にて  その1

ゆきわりそうグループでの常勤勤務は、2004年3月末で退かせていただいた。99年に社の自主閉鎖を余儀なくされ、塗炭の苦しみを味わってきたが、一方ではニューヨークや韓国でのコンサートを開くための現地設営や参加者の旅行計画立案と様々な業務、その一方でK社の嘱託として長年ご愛顧下さっていた法人団体や個人のお客様からの引き続き旅行業務のご下命を賜ったりした。当時の本業は、ゆきわりそうグループの法人業務であり、社会福祉法人の設立や高齢者のデイケアなどの送迎業務なども受け持った。結果的には、いくつかの顔をもちながらの5年余りであり、より得難い経験をしたと思う。お陰様で社の残務処理や自らの借財も片を付けることができ、身軽になった。これを可能にする原動力となったゆきわりそうの姥山代表以下スタッフのご好意、そして引き続きご利用くださったお得意様各位、応援して下さった方々に対しては感謝の気持ちでいっぱいであり、改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。 そのようなことから、これから先は、少しだけ自分自身の時間を大切にしたい、一方では、いい意味での「こだわりのある旅行」を企画してみたいなと考え、身勝手とは承知しながら常勤職を退かせていただきたいと申し出た。そして、引き続き法人業務と合唱団の事務局などにかかる業務を担当して週に1~2日出勤することになった。 そんなある日、JTMバリアフリー研究所の草薙威一郎氏から「ある専門学校でユニバーサルツーリズム学科開設準備が進められており、一緒に携わってほしい」との連絡を受けた。氏は、もとJTBの社員であり、彼とは70年代後半から80年代にかけて医療や福祉関係の団体旅行の受注を巡ってぶつかっていた。当時、この会社の存在は圧倒的に強く、視察関係団体の取り扱いで彼の所属する部署は、この分野の取り扱いも抜きんでていた。組織力は言うに及ばず、販売力や仕入れ力は圧倒的に強く、価格面の競争もあり、そんな中で弱小の会社が勝負するには何かの特色を持たなければ勝つことは難しかった。自分たちの会社は、企画、営業、手配、添乗なども通しでお世話することが多く、筆者は後年では視察先での通訳なども担当していたので、お客様との接点が多く、加えていうところのリピーターが多かった。そんなわけで、次第に顔なじみが多くなり、いわば便利屋的な存在としてもお客様を増やしていったといえよう。特に77年のアジア精神薄弱会議(当時の表現)がインドのバンガロールで行われ、日本からは60名近い人が参加され、三つの旅行会社で分担して担当した。草薙氏は営業担当社員ではあったが、添乗は別の人物が担当した。筆者は、苦労したがこの時の経験が役に立ち、次第に知的障害分野の諸団体の仕事をいただくことが多くなり、福祉関係団体全般にさらに深くかかわるようになっていった。 88年にゆきわりそうのオーストラリア旅行をお世話した経験から
、いうところの「障害者旅行」により深い興味を覚えるようになり、その取扱いと普及に力を入れるようになっていった。自社に限らず、そのような興味を持っていた旅行業の若手社員や障がいのある人自身も何とかして海外旅行に行きたい、などの興味や欲求を持つ人が増えていた。そのような人が集って「もっと優しい旅への勉強会」というグループが作られていた。91年4月のことであり、それを知ったので多分その年の夏ごろであったが私も例会に参加するようになった。草薙氏は、この会のリーダー的な存在であり、彼自身車いす使用者の介助をして一緒に旅行をしたり、障がい者を取り巻く旅行環境の改良を訴えるなどの啓発活動などを積極的にやっていた。かつてのライバル(であったと自分は思っていた)に久しぶりに会い、昔を語っては、苦笑いしながら、バリアフリー旅行の普及のために自分が関わってきた旅行や航空会社との折衝、鉄道やホテルなど海外の様子などを紹介しては、少しでも旅行がしやすくなるように社会に訴えていこうと私も積極的に動くようになった。 定例会には、旅行会社、航空会社、障がい者自身や家族、関係団体
、マスコミ、興味ある学生など様々な人が集い、旅行会社の取り組みや、旅行体験、宿泊予約段階で障害者と聞くと断られたこと、旅先であった嬉しい体験、それとは反対に芳しくない思い出、欧米先進国の様子などについての紹介や情報交換など異業種交流を通じて盛り上がった。新聞等にもたびたび取り上げられていた。次第に障害者旅行も広まり、日本旅行業協会(JATA)でも障害者旅行部会が設けられ筆者もその面では経験が評価されたのか副部会長を拝命していた。ただし、部会は、社会貢献委員会の傘下に置かれていた。障害者旅行を普及させるということは、当時は、「社会貢献」の一つとして捉えられていたのかもしれない。95年には、運輸大臣(現・国土交通大臣)の諮問機関である観光政策審議会
がその答申の中で「すべてのひとには、旅行をする権利がある。旅には、自然の治癒力が備わっており、旅をする自由は、とりわけ障害者や高齢者など行動に不自由な人々にも貴重なものである」と旅を楽しむ権利を明記した。社では、その頃は、本格的に障害者旅行への取り組みを強化しようと、法人団体へのアプローチも積極的に行い、ハワイの現地オペレーターなどの協力を得ることも試みていた。しかし、残念ながら肝心の自社そのものが次第に下降の一途をたどり、花火を挙げたものの不発のまま終わっていった。 そんな過去の流れがあったが、草薙氏は、その後、JTB総研に移り、JTMバリアフリー研究所所長としてより積極的にバリアフリー旅行等について研究し、普及を呼びかける活動をしておられた。駿台トラベル&ホテル専門学校では2003年頃から、「ユニバーサルツーリズム学科」開設への準備が進められており、草薙氏はこの業務に関わっておられた。そして、その学科を実際に立ち上げて学科の管理運営をしていくための人材を求めていたということであった。そんなときに、フリーになった小職のことを知り、白羽の矢が向けられたらしい。私は、そのことを知り、光栄に感じながらも、いささか先行き不透明ではあったが、自身での歩みを開始してみたいと考えていた。そんなわけで、せっかくの紹介ではあるが、おことわりしたいと思っていた。とは言いながら電話一本でおことわりすることはあまりに失礼であり、その趣旨もよく理解していないのでお話しだけはうかがってみようと、巣鴨にあるこの学校を訪ねた。 駿台のUT学科開設へむけて活発に動いておられたのは、教務部長代理の川田昇氏であった。高齢社会が進展していく時代にあって、旅行会社としても増大する高齢者や障がいのある人たちの旅行をよりスムーズにお世話するために旅行系学科としては、旅行と福祉両面からの技術と知識を兼ね備えた人材を育てたいというのが目的である、との端的な説明があった。各種の専門学校自体、少子高齢化の時代を迎えて、入学生をより多く求めるためにも時代のニーズに合った学科を設置して、職場にあっては即戦力として役立つ優秀な人材を送り出すことが必要である。超高齢社会の到来を前にして、旅行業専門学校として求められるものは何であろう、と熟慮し、種々検討する中で得たヒントが「旅行と福祉」の技術と知識を兼ね備えた人材の養成であり、JTMの草薙氏と出会い、その上で出された結果が「バリアフリーからユニバーサルデザインへ」であり、「ユニバーサルツーリズム学科」の設置計画であるとのことであった。 2005年度(平成17年度)の学科開設へ向けて、テキストの作成、授業計画、学生募集などの準備が進められており、学科長候補を求めているということであった。そのために、もっと優しい旅への勉強会であるとか、これまでの障がい者旅行の取り組みなどにより小職に声をかけて見よう、ということであった。旅行業専門学校として「駿台」は旅行業界でも良く知られた存在であり、卒業生がたくさん活躍していることは知っていた。その学校においてこれからの時代に必要な人材を育てるためのコース
として「UT学科」が設置されることに強い興味を覚えた。この数年前に、ニューヨークや韓国で、障がいの有無や国籍、民族、人種、宗教、肌の色などに関わらず、平和を希求する人たちが集って、ベートーヴェンの第九交響曲「歓喜の歌」を共に歌うコンサート、それは合唱のユニバーサルデザイン化であると自負しているが、その開催に集中的に関わった小職の実績には深い関心を寄せていただけた。これまでの添乗経験や海外コンサートで味わった思いなどを活かしてぜひ一緒に活動してほしい、という川田氏の熱い思いを聞いているうちに次第に自分自身、今一度自分のやってきたことが旅行、福祉の両面から活かせるのではないだろうかという思いに変わっていった。そして、その話を受けさせていただきたい、と答えたのはそれから数日後であった。   (資料 上から順に) もっと優しい旅への勉強会 入会案内(1995年頃) 誰もが行ける/誰もが使える/誰もが楽しめる/新しい旅への発想の転換を (産経新聞 1997年9月日) 広がる旅行支援事業 / 介助付海外ツアー募集(日経&日経産業新聞 1998年5月) 障害者の国際交流を!(西日本新聞 2002年11月30日)

 (2016/1/5)

小 野  鎭