2016.04.20 小野 鎭
一期一会地球旅104「良き仲間たちとの思い出 高校の同期生の旅行 その7」

一期一会 地球旅 104

良き仲間たちとの思い出 高校の同期生の旅行 その7

(ハプスブルク家の栄華の跡を訪ねる旅①)

2005年も押し詰まったころ、もう一度欧州旅行を考えようと話があり、中欧各地を中心に、ハプスブルク家ゆかりの地を訪ねる旅として呼びかけてみることになった。今回は、これまでの旅行参加者や関心の高そうな人たちへ案内して、一定数の希望者があれば、本格的に準備しようとの段取りであった。 ハプスブルク家の始祖はスイスのハービヒツブルク城に由来するそうであるが、13世紀末にルードルフ一世がドイツ王に選出されてから今のオーストリア一帯を支配するようになり、それから650年にわたって栄え、ヨーロッパの歴史の中で重要な役割を果たしてきた。しかしながら、ハプスブルク家は欧州に君臨したとはいえ、進んで戦争を仕掛けて領土を拡大したわけではなかった。他民族を隷属従属させようとしたことはなかった。それにも拘らず、この王家は、6世紀にわたってヨーロッパに君臨し続けた。なぜだろうか? それは言うまでもなく結婚政策が的中したのである。婚姻により、領土を広げ、様々な奇縁も加わってヨーロッパ最大の国家を支配したこの王朝の版図が改めて東西冷戦構造崩壊後のヨーロッパで見直されている。 (江村洋著 ハプスブルク家史話より抜粋)
ハプスブルク帝国のかなりの部分は、今のEU諸国と重なるところが多く、当時も今も多くの国や地方がそれぞれの地域の文化や言語を大切にしており、国境を自由に往来している。かつての古代ローマ帝国でもそうであったし、多くの民族が共存していくためにはそれがやはり一番望ましい統治の方法なのであろう。ほとんどが単一民族であり、日本文化、方言は別にして一つの言語、そして島国である日本人が理解するにはむつかしいところもあるが実際に欧州諸国を旅してみるとそんなことを感じる。 ベルリンの壁崩壊を契機として、1990年代から社会主義体制が崩壊し、かつての社会主義国家は次第に自由主義国家への歩みが強まり、観光面でも開かれた国へと替わり、むしろ観光は大きな産業として位置づけられるようになっていた。これまでフランスやイギリス、イタリアやスイス、西独などを観光で訪れた人たちも次第に旧社会主義国家と言われているチェコやハンガリー、ポーランドなどへの関心を示すようになってきた。中欧と呼ばれるこれらの地域へ行くにあたって、ウィーンはまさにその玄関口ともいうべき位置にあり、加えてかつてのハプスブルク帝国の首都、文化芸術の都とあってその存在はますます大きくなっていた。 そんなことを考えながら旅行計画を練った。今回のツアー名は、「ハプスブルク家の栄華の跡を訪ねる旅」であったが、同期生への呼びかけを行うための旅行計画立案は、少々難しさもあった。2002年に還暦記念「オーストリア、南ドイツそしてスイス・アルプスの旅」に行っているので、その時の参加者などからは、「ウィーンはもう行ったき、行かんでよかばい」(もう行ったので行かなくていい)という声が出てくることも予想された。さりとて、今回初めての人たちにとってはそれを抜くわけにはいかない。何といってもハプスブルク帝国の首都であり、特に19世紀には西欧文化の一つの中心であり、その名残りがたくさんあり、中欧の中心的存在でもある。つまり、リピーターと初参加のメンバー両方に喜ばれるプランを作らなければならない。こうして、ブダペスト、プラハ、世界遺産のチェスキ・クルムロフを経て、ドナウ川のヴァッハウ渓谷からウィーン、そして最後はパリに至るコースとして前述したようなハプスブルク家の由来と今回の旅行計画の趣旨を述べて呼びかけた。旅行時期は、2006年7月22日~8月1日までの11日間、今回も成田に集まり、そこからウィーンへ飛び、乗り換えてブダペストに至るプランとした。
旅行時期は、真夏の旅行最盛期、中欧一帯の暑さも予想されたが、日本と違って、むしろ、さわやかでカラッとした暑さであってほしい、と期待した。ふたを開けてみると、今回も25名の参加希望があり、前回の参加者が13名、今回初が12名と殆ど半々であった。この中には、有松氏の友人であるDr.橋本もおられた。高校は別で我々より少し年齢は下であるが、すでに引退して旅行経験は豊富。無類の読書家であり、多くの場合、エレベーターは使わずに階段を上り下り、老化は足から、とならないように常に健康に留意している素晴らしい人物である。
今回も福岡や関西勢は成田に前泊、新しい顔ぶれも加えて元気に飛び立ち、ウィーンを経てブダペストに至った。さすがに、第1日目は、長時間の移動でかなりの疲労もあったが、一夜明けて、早朝散歩に出かけた元気なメンバーもあった。ドナウ川にかかるマルギット橋をさっそうと歩いてから朝食に臨む様子が頼もしかった。 午前の観光は英雄広場から始まり、ここではお馴染みの12回生の染め抜きの旗を広げて依然として意気軒高な一行であった。
オーストリア・ハンガリー二重帝国における一方の都であったブダペストは、「ドナウの真珠」と呼ばれる美しい町、丘の上からはそれに恥じない美しい光景が広がっていた。特に最後の皇帝フランツ・ヨーゼフの皇妃エリザベートはこの町をたびたび訪れ、ハンガリー国民には大変な人気があったと聞いている。ドナウ川には、皇妃の名前を冠したエリザベート橋がかかっている。午後のフリータイムはかなりの暑さで汗びっしょり。
ブダペストは市内に温泉が湧いていることでも知られ、宿泊したアクインカム・ホテルには温水プールがある。疲労回復と運動を兼ねてひとときを楽しんだグループもあった。
翌日は、鉄道でチェコのプラハへ、ブダペスト東駅は19世紀末に造られたアールデコ調の堂々たる建築。ガラス張りの見事な駅舎は、当時のこの国の力を彷彿とさせているような気がした。
昨年、おびただしい数のシリア難民がドイツへ向かうためにこの駅で列車を待っている姿が幾度も報じられていた。昔も今もこの駅は歴史を映す鏡であるのだろう。 プラハまでの6時間半、欧州急行(EC)フンガリア号は、車窓の風景も楽しく、さわやかな田園風景を楽しんでいただけるようにと、考えて設定した列車の旅であった。ところが、期待とは裏腹に数日来の猛暑で車内冷房は入っていてもほとんど効いていないような暑さ。旧式の車両は設備も不十分であったのかもしれない。加えて、窓は空調を保つため、開閉できない。「小野ちゃん、あちいばい、何とかならんとね!?」(暑いよ、何とかならないの?)と扇子を使ったり、汗をぬぐいながら、車内は蒸し風呂状態。幾度も車掌に訴えたが、両手をひろげ、肩を持ちあげて、お手上げといった様子。概して、ヨーロッパの古い建物や車両は寒さには強いように作られているが、暑さには弱いことが多い。特に、旧社会主義国などの鉄道車両は古くて車内設備は質実剛健といった感じで、この時は「サウナ列車 フンガイ号」と名前を変えたい難行苦行の列車旅であった。 (以下、次号) (資料 上から順に、 一部を除いて、2006年7月当時のもの) ハプスブルク帝国の版図(1848年当時 資料借用) ハプスブルク家の栄華の跡を訪ねる旅 携行旅程 早朝散歩グループ マルギット橋の上で ブダペスト市内観光 英雄広場にて ホテル内の温泉プールにて(コリンティア・アクインカム・ホテル) ブダペスト東駅のファサード(正面玄関) ブダペスト東駅構内にあふれる難民(2015年夏 資料借用)

(2016/4/19)

小 野  鎭