2016.05.17 小野 鎭
一期一会地球旅108「いやしの旅 (その1)」

一期一会 地球旅 108

いやしの旅 

(その1)

1988年頃からバリアフリー旅行に取り組んできた。当時は、障がいのある方の旅行のお世話では、特に団体の場合は、ホテルやバスの手配もさることながら先ずは航空会社の理解を得ることが大きな仕事であった。時が経つにつれて、少しずつ航空会社や手配会社の協力を得られるようになり障がい者旅行に取り組む会社も少しずつ出てきた。大手の旅行会社には専門部署を設けたり、個人として障がい者旅行に興味を覚える人もでてきていた。また、身体障害のある人であって旅行好きな人、福祉関係者なども加わって、「もっと優しい旅への勉強会」という集いができていた。1991年4月頃であった。間もなく、私もこのグループに加わり、一緒に活動するようになった。情報交換や新しい仲間との出会いもあったし、お互いに力を寄せあうようになっていった。航空会社の社員も参加するようになってきたし、新聞記者などジャーナリストも定例会に参加して関心が高まるなど、障がい者旅行がマスコミでも取り上げられるようになっていった。 やがて、バリアフリー旅行という呼び方が普及し、さらには「バリアフリーからユニバーサルデザインへ」という考え方が出てきた。バリアフリーといっても、障がいの種類や度合いは様々であり、求められる対応方法はその都度より細かく対応しなければならない。一方では、最初からできるだけ多くの方が使いやすい、あるいは利用しやすい、ということを前提において物品を作ることあるいはサービスを提供することが求められる時代に変わってきていた。自分自身、旅行サービスもそのようなことを心がけながら旅行手配を意識していたが、肝心の自社は様々な要因から1999年に自主閉鎖を余儀なくされていた。自身は、会社処理をしながら、障害者施設で法人業務などを担当し、一方で重度の障がいのある人たちを核とする合唱団の事務局を務めてニューヨークや韓国での海外演奏や国際交流促進などを担当していた。その一方では、K Int’l社の嘱託として長年ご愛顧いただいてきた法人団体などの看護や障害者施設職員の海外視察や研修などの旅行をお取り扱いさせていただいていた。こうして、いくつかの顔を持つことにより、会社閉鎖に伴って自身
で負っていた負債もほぼ処理を終えていた。そんな中で、2002年4月に韓国で合唱団の演奏会が行われた時、母が上の妹と共にソウルに応援に来てくれた。しかし、その時は自分自身はコンサート開催の責任者の一人であり、私的な時間はまるで無く、一緒に歩く時間どころか、ゆっくり話す時間も無かった。それからしばらくして、郷里に住んでいる妹たちから少し早いけれど母の米寿の祝いを兼ねて家族グループの懇親の集いをやりたいね、と相談を受けた。長男であり、自分自身が提案すべきことではあったが、当時は気になりつつもそれだけの心の余裕が無かったという方が適当であったかも知れない。幸い、ひところの苦難の日々から少し息をつけるようになってきていたのでその話をうけて出かけることにした。03年4月、長崎のハウステンボスで楽しもうというプランであった。この時は、障がい者旅行ということについてはさほど意識していなかったが、母は外出時は車いすを使うことが多かったのでその夜は車いすのお客様も使いやすいようにと意識した宿泊施設を手配してあった。そして、広いハウステンボスの園内も車いすで動くにはほとんど支障はなかった。 その翌年、2004年3月、これからは障がいのある方や引き続きご愛顧下さる方々などへ向けていい意味での「こだわりのある旅行」を企画してみるとか、一方では少しは自身の時間を大切にしながら過ごしたいと考えて、お世話になっていた障害者施設を退いた。そこで、一段落したこともあって家人とかねてより抱いていた欧州旅行に出かけることを本格的に考えてみよう、と話し合っていた。これを一年後に実行することとしてオーストリア~ドイツ~スイスと回ることを想定していた。長年、旅行業に従事していながら家族と出かけたことは週末や連休時など年に数回、あわただしく2,3泊の国内旅行が精いっぱいであり、「紺屋の白袴」ということわざの通りの日々であり、申し訳ない思いであった。加えて、数年来、さらに大きな苦労を掛けていたのでそのための労いの気持ちもあって何とか旅行を実現したいというのが本音であった。ところが、この年6月から旅行業専門学校に勤務することになりそれもユニバーサルツーリズム学科開設という大きな役割があった。具体的な業務は教務部全体で取り組むにしても「バリアフリー旅行術」のテキスト作りや学科開設後は実際に授業を受け持つことになった。そのための時間と授業を担当するためには自らの学習が必要であり、また多忙な日々を送ることになった。しかしながら、この時は、勤務するにあたっては、極力支障が出ないように努めるが、一年に一度は添乗を含めて海外に出かけるための時間を頂戴したいという条件を添えさせていただいた。 こうして2005年夏に旅行しようと本格的に準備を進め、郷里の福岡県在住の妹たちに相談した。母は下の妹夫婦のところに住んでいた。妹たちはこの機会に本当の意味での米寿の祝いとして母を連れて行こうと提案してきた。さらには親しい方々などにも声をかけてみたいとの希望が加えられた。そこで、東京地区でもかねてより個人的にも機会があれば連れていって欲しいとおっしゃる方などがおられたのでお誘いすることにした。こうして、家族や妹たち、そして参加希望されている皆さんそれぞれに自らへの労いという意味合いから、「いやしの旅」と銘打って7月22日~8月1日、ウィーン~ザルツブルク~ミュンヘン~チューリヒ~ミューレン~ルツェルンをまわる11日間の行程が決まった。 この旅行には、全体では23名の参加者があり、12歳(小5)から87歳まで年齢幅も広かった。この中には、肢体不自由など脳性麻痺のある方や重度知的障害のある方、腎移植を受けた方など障害者手帳保持者7名がおられ、内3名は車いす使用であった。そこで、航空会社には車いす使用のお客様がおられ、家族や同行者が介助することなどを伝えて予約を確保することに力を入れた。また、ホテルは極力アクセシブルルームを確保することを試みた。行程の前半6日間はバスツアーであるがリフト付き大型バスは準備できないとのことで止む無く家族や添乗員などメンバー相互が支援することでバスの乗降をしてもらうことにした。幸い、スイスでは送迎の必要な3日間はリフト付きバスをチャーターすることができ、好都合であった。 航空便の予約を進めていく段階で車いすのお客様については、車いすを使用する理由(障害の種類など)や車いすのサイズなどについては情報を提出した。それに対してお客様個々についての医師の診断書(MEDIF)を求められた。これまでのお客様でも診断書を求められることは経験していたのでよくあり得ることと承知して
いた。主治医の診断で母のMedical Dataには、Hypertension(高血圧)と書かれていたが、Prognosis for the trip(旅行への療護の影響)にはNo worryつまり旅行上支障はない、とあり、それ以外の所見はNoneであった。しかし、航空会社からは、Incapacitated Passengers Handling Adviceつまり搭乗中に対応不可の状態が起きた場合の航空会社の対応範囲と免責条件、そして乗客が負う責任、もし、特別な対応を必要としたときの金銭的な負担はすべて乗客側にあることについての同意書提出を求められた。過去にも一、二度経験していたが航空会社の営業担当からは形式的なことであり、あまり難しく考えずにお客様から署名をもらってください、と説明があった。 しかし、今回は自分の母もその対象であり、機内で重篤な事態に至ることは先ずあり得ないとは思いつつも、万一、緊急着陸などに至ったときの経済的負担などを考えると署名するについては随分勇気が必要であった。同意書提出は滅多に起きないとは思いつつも、お客様に説明する上ではよほど慎重にしなければならないことを痛切に感じたものであった。 航空会社から搭乗応諾の回答があったのは出発の数日前であった。回答を待つ間、万一、診断内容や航空会社にとって不適な場合は搭乗を拒否されることもありうるかもしれない、と内心不安な気持ちが付きまとっていた。航空会社側から見れば、Routine Work(通常業務)の範囲内であり、特別に難しく考える必要は無かったのかもしれない。しかしながら、万一の場合、お客様の身体状況または症状から、搭乗は拒否されました、とは容易には答えられないであろう。旅行業法上乃至旅行業約款上では、旅行会社側には責任は無いが、お客様に対して心理的には、大きな禍根が生ずることは否めないであろう。航空会社側の姿勢としては、もっと親身になってほしい、と思ったものであった。勿論、それから10数年が過ぎており、今は航空会社の姿勢も大きく変わってきている。搭乗がむつかしい場合ということについても当初から明確に説明されており、お客様側でも
理解しやすくなっている。このことについては後述したい。 長い準備期間を経て、いよいよ2005年7月21日、福岡グループは成田に前泊、私も当日の学校での勤務を終えて、夜更けに成田のホテルに入った。そして、翌朝、東京勢も集合されて成田空港でメンバー全員が顔合わせ、晴れてウィーンへ向けて出発した。(以下、次号) (資料 上から順に) ハウステンボスにて (2003年4月) Incapatitated Passengers Handling Advice (対応不可の場合の航空会社への同意書) いやしの旅 携行旅程(表紙)  

(2016/5/17)

小 野  鎭