2016.07.13 小野 鎭
一期一会地球旅116「「世界で一番美しい海を見に行こう」(パラオ その2)」

一期一会 地球旅 116

「世界で一番美しい海を見に行こう」 (パラオ その2)

夢燈館とビーポップで主催される海外旅行計画「世界で一番美しい海を見に行こう」の旅行先として、パラオを推薦した理由はいくつかあった。
当時、海が美しいことでダイビング目的などの旅行先としてはかなり知られていたが、一般的にも少しずつ紹介され始めていた。日本からは、直行便も少なくハワイやグァムのように超ポピュラーではなく、むしろ目新しさがあった。私自身は、70年代に一度訪れて、海の美しさとパラオの人々の心の温かさに感激したことを覚えていた。特にロックアイランドという島々は、昔は南洋松島ともよばれ、海の美しさは素晴らしく、世界的にも知られていた。遠浅の波静かな海と白砂の浜辺ロングビーチは歩行不自由な人たちにもきっと楽しんでいただけるに違いないという思いがあった。
歴史的に言えば、かつて日本がパラオのコロールに南洋庁を置き、委任統治領の行政の中心地として漁業、農業、鉱業などの分野で目覚ましい発展を遂げたそうである。第二次大戦後はアメリカ合衆国の信託統治をうけていたが1994年にパラオ共和国として独立した。人口2万のミニ国家であるが、日本との関係が深く、親日的で治安もよく、観光業はこの国の主要な産業の一つであり、日本からの観光客の誘致にも力を入れていた。駿台トラベル&ホテル専門学校にパラオの留学生がいて、筆者は旅行系学科長として初めて送り出した卒業生の一人でもあった。彼女は、卒業後、国に戻って観光業に従事しており、多分、歓迎してくれるであろう、という期待があった。
パラオの国旗は、黄色の月と太平洋を表す明るい青で、そのデザインは日本の日の丸と似通ったところがあり一層親しさを覚える。これらいくつかの要因を挙げ、さらにパラオ観光事務所から得た資料も携えて、これをお勧めした。欧米諸国であれば自信を持って現地の旅行事情を説明できるが、一度、それも遥か数十年も前に行った経験では説得力はおぼつかなかったがたくさんの情報と資料を基にご案内したところ、湯澤氏と小林氏両代表はこれに興味を示されて、パラオに決まった。 最近の旅行先としてパラオへの旅行手配は、乏しい経験しかなかったのでいくつかの会社に相談してみたが、費用はそれなりの金額であり、心配するほどではなかった。しかしながら、現地事情と手配そのものについてはかなり経験のある会社であっても、バリアフリー旅行としての取扱経験がほとんどなく、営業担当者の姿勢にも熱意が感じられなかった。そこで、かねてより、バリアフリー旅行の普及に力を入れておられたB氏が大手の会社に移られた、と聞き、彼に相談した。そして、当然ではあるが、その会社の業務として取り扱うことを条件で受けてもらえそうであった。このことを旅行主催者である前述の両氏に伝えたところこの話を受けていただけることになった。但し、筆者がどのような形でこの旅行に関わるのかということではかなり気にされていた。B氏と相談したが、その会社の旅程管理者(添乗員)としての契約はできないとのことであった。そこで、旅行会社の添乗員ではないが、旅行団の一員である幹事としてグループに加わり、限りなく添乗員的な役目を果たすことで話がまとまった。 旅行条件は、主催者側とB氏で決めていただき、航空便の確保、現地手配(ホテル、貸切バス、ガイドなど)が進められ、途中経過は旅行幹事として筆者が種々伺い、意見や希望を述べながら旅行準備が進められていった。
現地での陸上移動は、パラオに一台だけあるリフト付き中型バスの借り上げができるとの朗報も得た。宿泊は、パレイシアという比較的大型のホテルが準備され、3室のアクセシブルルームが確保されるメドもついた。ただし、よくあることだが一室はツインベッドではなく、クィーンサイズベッドであることの情報も得た。このほかに一室を事務局用として借り上げ、スタッフの打ち合わせなどに使うこととした。航空便は、パラオ直行便は頻度が少なく日取りや運賃などの条件が合わなかったこともあり、往復ともC社のグァム乗換便とせざるを得なかった。これらの準備を進める一方で、主催者側からは、現地では美しい海と風景や食事などを楽しむだけでなく、現地の人々と交流する機会を設けて欲しい、との要望が添えられていた。旅行手配は現地手配会社など通称オペレーターを介して行われるが、公的訪問や民間交流は確たる受け入れ先あるいは協力先の存在が必要であり、その協力がなければ容易には実現できない。そこで、前述した駿台に留学していたブレル・キク嬢に打診していたところ、協力するとの内諾を得ていた。実は、この旅行グループには、これまでにも幾度か紹介した駿台でのユニバーサルツーリズム学科の第1期生、廣中美子さんが自主的にボランティアとして参加したいとの希望を得ており、彼女はキクとも親しい間柄であった。しかも、この旅行がぜひ成功してほしいと駿台時代に特別講師として来ていただいていたKさんと自費で現地を訪れて下見までしてくれていた。そんな経緯もあり、キクとの連絡は廣中さんに担当していただいた。後日談ではあるが、パラオの人々の特性であろうか、悠揚迫らぬおっとりした性格で、話を進めていくには随分苦労もあったらしいが、キク嬢からは「家族や友達などみんなで歓迎するから楽しみに来てください!」との返事は得たということであった。
旅行準備を進めていると、自分自身が旅行の手配を担当していないだけにややもすると隔 靴掻痒の感が無きにしもあらずであった。しかし、そこは他の会社が準備した旅行に加わる気分を味わうということで自らの経験としても興味深いことがたくさんあった。この年の夏、旅行参加呼びかけ段階では、B氏が海外のバリアフリー旅行の様子などを説明し、筆者もそれまでの経験や最新情報を添えて案内し、きっとパラオの美しい海を楽しんでいただけるでしょうと強調した。最初は不安を感じる人もあったようだが、若い世代はむしろ積極的で、パラオの美しい海が少しずつ理解され、期待が高まっていったようであった。こうして、10月にはほぼ参加者の顔ぶれが決まってきた。参加者の内訳は、歩行障害のある人(車いす使用)と知的障がいのある人が各3人、病気療養後で回復中の方1名、家族&スタッフ6名、廣中さん、そして幹事としての筆者、計15名であった。この時は、2台の海浜用車いすも主催者側で持参されることになった。 こうして、2008年12月8日の朝、成田空港に15名のメンバーが集合した。B氏から現地での手配は完璧であることの報告があり、彼の協力を得て搭乗手続きを終え、一行はグァムへ向けて飛び立った。 (以下次号) (資料 上から順に) ロングビーチ(79年5月 訪問時) パラオの国旗(資料借用) パラオの名所ミルキーウェイにて(79年訪問時) パレイシアホテル案内 パラオ情報(2008年当時)

(2016/7/11)

小 野  鎭