2016.07.19 小野 鎭
一期一会地球旅117「「世界で一番美しい海を見に行こう」(パラオ その3)」

一期一会 地球旅 117

世界一きれいな海へ行こう! パラオ (その3)

いよいよグァムへ向けて飛び立ち、3時間余り。 機内食を楽しんだり、写真を撮りあったり、ガイドブックを見たりしながら、緊張された様子は見られなかった。 
やがて、青い海と市街に隣接したグァム国際空港に到着、ここはアメリカの一部であり、乗り換えのための寄港であるが米国入国審査を受けなければならない。 旅券とI-94(通称 アイ・ナインティフォー)と呼ばれる米国入国カードを提出してパラオへの乗り継ぎ(Transit)と告げたが入国のスタンプが押された。メンバーはいずれも興味津々で列を作って、出入国管理官に向かってにこにこしながらサンキューといっては旅券を受け取った。パラオ行きの便まで4時間の待機。
最初のうちは物珍しく待合室内を行ったり来たりしては売店を覗いたり、お茶を飲んだりしていたがいささか持て余し気味。やがて再び出発、2時間余りのフライトでパラオのコロール空港に着いた。30数年前にこの空港に着いたときは、パラオの伝統的建築物アバイ風の空港事務所が一軒建っているだけ、荷物も自分たちで運んだことを思い出した。さすがに今は立派な空港設備が整っており、歩行不自由なメンバーもスタッフや空港職員の支援を受けながら機外へ出た。
格納されていた車いすも傷むことなく準備されており、全員そろってパラオ入国。昔、パラオを訪れたときは、国連の委託によりアメリカの信託統治下であり、Micronesian Immigration –Palau District (ミクロネシア移民局 パラオ管区)という入国スタンプが押されていたが、1994年に独立してパラオ共和国(Republic of Palau 現地語では、ベラウ)となり、今回は名実ともにその国名が押印されている。一つの国の歴史を興味深く感じた思いであった。使われている言葉はもっぱら英語であり、通貨も米ドルである。 パラオは、日本と時差はなく午後8時過ぎであったが真夏を思わせる暑さ、12月上旬の日本との気温差は20℃以上あり、思わず汗がにじんでくる。スーツケースやリュックサックなどの荷物を受け取って到着ロビーへ出ると現地手配事務所の所長とガイド、バスの運転手や助手などが迎えてくれた。空港ビルを出ると、いささか旧式ではあるが日本製のリフト付き中型バスが準備されておりこれでホテルへ向かった。バスにはそのスペースがなかったので、荷物は別の小型トラックでホテルへ別送された。グァムでの乗り換えを含めて成田を発って10数時間が過ぎており、さすがに疲れ気味、ホテルへチェックインして、早々に休んでいただくことにした。かねて予定していたアクセシブルルームも間違いなく準備されており、全員が落ち着かれたことを確認したころはすでに午後11時を回っていた。スタッフは事務局用に確保した部屋でミーティング。一日の見直しと明日の準備、体調に異常のある人は居ないかなどの確認は大切なルーティンワーク(定例の必須業務)であった。スタッフも自費参加であり、休んでいただきたいし、楽しんでいただきたいが利用者各位の安全の確保と旅行をみんなで楽しんでいただくためには細かいところまで神経を使っておられ、頭が下がる思いである。さらにそのあと、女性スタッフは部屋を回ってトイレや入浴介助をした人もあるし、男性スタッフは、海浜用車いす「ランディーズ」の組み立てに汗をかいておられた。明日は、ビーチでお楽しみプログラムが予定されており、ランディーズは必須の用具であった。
一夜明けて、ホテルの窓から海は見えないが緑濃い木立と青い空が広がっていた。目の前はコロールの町の目抜き通りだそうであるが商店やビルが立ち並ぶほどではなく緑の空き地もある。車が行き交っているが日本のような慌ただしさは感じられず、何となくゆっくりしているようであった。ホテルのレストランへ行くとブッフェ式朝食が準備されていた。スイカやマンゴ、バナナ、パパイヤなど新鮮な果物、そしてスクランブルエッグやゆで卵、ヨーグルトやハム、ベーコンなどとパンが並べられており、食欲をそそる。三々五々メンバーも見え、まだ寝たりないような顔もあったが朝のあいさつを交わすと次第に活気が出てきた。体調もよさそうである。 朝食後、準備を整えてロビーへ出てみると昨夜来てくれた現地ガイドのヒロシ氏とマネジャーのキクチ氏も来てくれていた。二人ともパラオでの生活が長いと見え、現地人と見まがうほどの見事な肌の色。さらにバスのドライバーと助手も付いてくれるという。海水浴に行く子どものように足取りも軽くリフト付きバスに乗り込んだ。20分も走ったであろうかロイヤルリゾートの船着場に着いた。どうやら、この桟橋がいろいろなツアーの発着場所であるらしい。我々のグループ以外にも個人や団体が海遊びに出かけるらしく、大小の船が出発していった。
我々の船は30人乗りくらいであろうか、船端の両側に長いすがあり、車いすのメンバーもいったん車いすから下りて船に乗り込み、船上では再び車いすに座り、両側から支える。前夜、深夜までかかって組み立てられたランディーズも積み込まれ、全員が乗り込んで船は出発。船が港の外へ出ると、海はコバルトブルーの色が濃くなり、船は次第にスピードを上げる。快晴ではなかったが、次第に空も明るくなり、みんなこれから行くロングビーチの美しい浜を想像して心が弾んだ。ヒロシ氏やキクチ氏がパラオの案内や人々の生活の様子、美しい海、これから行くロックアイランド、日本人には南洋松島と呼ばれていた島々を紹介してくれた。彼らのジョークを交えた案内と気さくな明るさがあっという間にみんなを打ち解けさせた。群青色の海上を快走する船上で心地よい風を頬に受けながらやがてロングビーチと呼ばれる白い砂浜が続く島に着いた。
一帯には船着場がないので、手ごろなところに船を止めて揺れないように固定された。船端からみんな下りてひざ下までの水の中に下りて浜へ上がる。
車いすのメンバーはみんなで支えて船から降りてもらった。遠浅の海は干潮になると数百メートル先まで砂州が現れるそうで、このときもかなり先まで水中に寝転がってもいいほどの快適さであった。あいにく空には雲がかかり、陽ざしは弱かったが海水は暖かくみんなわいわいキャーキャー、腹ばいになって水浴や砂遊びに興じた。大きなタイヤの着いたランディーズは浮袋変わりにもなるので、水中でも大いに威力を発揮した。ロングビーチでのひと時はこの旅行のハイライトであった。
  ロングビーチでのひと時を終えたのち、再び船に戻り、ロックアイランドの島をぬってゆっくり進み、緑濃い小島に着いた。パラオは、大小200余りの島からなる島嶼国家であるが実際に人が住んでいるのは10島くらいらしい。
つまり残りはほとんどが無人島であり、ピクニックなどで訪れることができる島はテーブルやトイレなどが設置してあるところに限られているらしい。しかしながら水道や電気などの設備はなく、持ち込んだものはすべて持ち帰らなければならないし、多分、火を使うことも許されていないのではないだろうか。
その島に船を着けて、お昼をいただいた。朝、乗船時に一緒に準備されていた弁当であり、なかなかのご馳走であった。弁当箱はプラステッィクの重箱式であり、使い捨ての発泡スティロールなどのケースは使われていないとのこと。余談であるが弁当はパラオでもBentoと称されているそうである。島はヤシの木や濃い緑の樹木で蔽われており、ハイビスカスやブーゲンビリヤの花が咲き乱れていた。いつしか空は晴れて青空に白い雲が浮かんでいた。波静かな湾内は湖のように穏やかでサンゴ礁をぬって泳ぐ熱帯魚の姿が優雅で美しかった。
船をゆっくり走らせると浅い海底に太平洋戦争で沈んだゼロ戦がそのまま沈んでおり海藻で蔽われた機体のなかを魚が泳いでいた。若い世代にはあまり感慨は感じられなかったが戦争の悲劇を聞いている人たちにとってはいたたまれない思いを覚え、黙とうする姿もあった。美しいパラオの海にもう一つの姿があった。 (資料 上から順に、 写真は一部を除いて2008年12月撮影) 昔のパラオ空港、荷物の確認中(1979年5月 シャツ姿は、後輩のS社員) ミクロネシア移民局パラオ管区事務所 入国スタンプ(1979年5月) パラオ共和国 入出国記録(以下、2008年12月) コロール・ローヤルリゾート船着場 ロングビーチへの船 ロックアイランド風景 ロングビーチに遊ぶ、白い砂浜がまぶしかった。 ロングビーチに遊ぶ、水の色の違うところから向こうが深くなっている。 ロングビーチでは、腹ばいになっても平気。 ロックアイランドでの昼食。弁当箱もペットボトルもすべて持ち帰った。 只今、上陸中。湾の右手の水中にゼロ戦が沈んでいた。 (2016/7/19) 小 野  鎭