一期一会 地球旅 171 リンデンハウス 秋の東北へ(13) 南三陸にて(3)

一期一会 地球旅 171

リンデンハウス 秋の東北へ(13) 南三陸にて(3)

明けて最終日、3日目の朝は版種を思わせる冷たい雨であった。この日のメインプログラムは南三陸ホテル観洋が催行している語り部ツアーに参加することであった。メンバー各位には帰り支度をしてフロントに一括して荷物を預けていただき、ホテルの玄関へ急いでいただいた。このツアーはこのホテルに宿泊している客を対象にして、ホテルのスタッフが語り部として案内している。大型のバス3~4台が準備されていた。いずれも混載であり、私たちのグループは最初のバスを指定された。ほかにも個人客数名、さらに少人数グループがいくつかあり、総勢30数名であったと思う。ということは、この朝の語り部ツアーの参加者は全体では百数十名あったのだろう。語り部を務めるのはいずれもホテルの従業員であり、彼ら自身が直接あるいは家族や関係者が被災している人が殆どであった。この時の担当者は男性のO氏であった。ホテルの中堅幹部らしく、物腰は穏やかであったが、いざ話し始めると次第に熱がこもり、すごい迫力であった。

震災ではホテルの建物そのものの損傷はそれほどひどくはなかったが露天ぶろなどのある2階部分まで津波に襲われたとある。その直後、繰り返す津波でホテルに至る橋が壊れ、道路ががれきで覆われてホテル自体が孤立し、機能不全に陥ったがその日の滞在客や駆け込んできていた近隣の住民の緊急避難先となったそうである。ホテルが解放されたのは1週間後、3月17日に滞在客を送り出すことができた。しかし、その後も避難者や従業員の家族を含めて6カ月間にわたって600名を受け入れたとホテルの女将阿阿部憲子氏の話がネットで紹介されている。

〔東日本大震災における貢献者表彰 公益財団法人 社会貢献支援財団 南三陸ホテル観洋 女将 阿部憲子氏〕https://www.fesco.or.jp/winner/h24/059.php

バスの車窓からは秋雨に濡れた背の高い草原がすでに黄色から茶色に変わりつつ一面に広がっていた。道路や橋、住宅用地と思われるところなど、いたるところ工事が行われており、徐々に完成しつつあるところもあった。かつては住宅地や商業地区、公共建造物など町の中心部にはかなりの建物があったそうだが今は一面に整地され、小高い防潮堤が建設されていた。従って、港までを見通すことはできなかった。O氏の説明は熱気を帯び、ある時は嘆くように、ある時は訴えるように説明と二度とこのような悲劇を繰り返さないようにとの主張があった。車窓から見る風景と当時を想像しながら、氏の語りを聴いていると、たびたび胸に熱いものがこみ上げ、時に涙を誘われることもあった。歴史や景色、文化や風習などについて学び、時に民謡などを唄って客を楽しませてくれるバスガイドなどと違って、語り部各氏は彼ら自身、あるいは家族などが被災するなど死ぬほどの苦難を乗り越えてきた人たちであり、彼らの体験談と主張には深い真実味があふれていた。

志津川町の中心部に行く前に町立戸倉中学校跡に立ち寄った。バスが緩やかな坂道を登っていくとかつての校庭であった。海抜20数メートルあり、海を臨む見晴らしの良いところであったが、今では体育館であった建物の一階部分が壊れたままに残され、震災発生の午後2時48分を指したままの大きな時計が壁にかかっていた。津波は校庭のふもとにあたる谷戸の奥まで行ってそこからまた海へ逆流、新たに襲ってきた津波とぶつかって一気に水位が高まって校庭部分からさらに校舎の一階部分まで襲ってきたとのこと。その日、体育館では翌日の卒業式に備えて予行練習が行われていたそうである。震災後、この学校の学生たちは別の学校で授業を受けたが、その後の学生数の減少もあって学校自体、3年後の2014年4月に志津川中学校に併合されて、戸倉中学校そのものは閉校された。2011年度の学生たちは、彼ら自身の希望により、津波に襲われて破壊された元の校舎で卒業式が行われたそうである。私たちが訪れたその日、校庭には仮設住宅群が立っていた。

(以下次号、もう一度だけ書かせていただきます。)

(資料、上から順に。いずれも2016年10月17日撮影)

語り部の話に耳を傾ける。

かつての市街地は草原に替わっていた。

復興工事の槌音が大きく響いていた。

志津川町立戸倉中学校であった建物。時計は午後2時48分を指したまま。

同上、校庭には仮設住宅が並び、駐車場となっていた。その向こうには三陸の海。

(2017/8/15)

小 野  鎭