2018.01.24 小野 鎭
一期一会 地球旅 187 台湾の旅(2)
1972年(昭和42年)、中華人民共和国との国交が正常化され、中国との交流が復活した。中国への旅行はそれまでに比べるとはるかに行きやすくなった。当たり前のことであるが、それ以前は北京や上海、広州など中国の主要都市へも直行便はなかった。 春と秋に広州交易会という大型の貿易見本市が行われていたが、香港へ飛び、そこから鉄道で広州へ行くという方法が一般的であった。発券業務に携わっていた自分は中国の入国許可(査証)取得業務は担当したことはなかったが営業担当社員が苦労していたことは知っていた。北京や上海への航空路が開かれ、次第に中国との往来が多くなっていった。当初は業務渡航が多かったが、友好訪問といった名目での旅行であるとか、旧満州(今でいう中国東北地方)から引き揚げてきた人や肉親の墓がハルピンや新京など(長春)にあるのでその地を訪ねたいなどという人もあった。そんな関係者のひとりから書道の師範をしている方を紹介され、お世話をさせていただいた。そんな縁もあって自分自身が初めて中国を訪れたのは書芸家グループの添乗、1980年のことであった。北京、洛陽、西安などを訪れた。兵馬俑が発見され、博物館として一般観光客も見学できるようになってまだそれほど年月は経っておらず、数百体が展示されており、学校の体育館のようながらんとした建物であった。その後も発掘が続けられ、いまでは8,000体もあるとか。博物館自体も大きくなっており、連日世界中からの見学客が訪れて深い感動を覚えているという。   中国との国交が回復した一方で、台湾との外交関係は断絶され、それまでの交流は公的には絶たれ、往来する旅行者も多分減っていったと思うし、経済的な不利益を受けた人も多かったであろう。日本から台北へ乗り入れていた日本航空(台湾からは中華航空)も1974年には運行中止を余儀なくされ、アメリカのノースウエスト航空やシンガポール、キャセイ航空などを利用するしかなかった。その後、日本航空の別会社として1975年に日本アジア航空(JAA)が設立されて東京国際空港(羽田空港)から台北および高雄へ運航を開始した。1978年に
成田空港が開港されてからは成田へ拠点を移した。一方、台湾の中華航空(チャイナエアライン=CI)は羽田の国際線ターミナルからその後も発着していたと記憶している。こうして日本と中国、台湾とが結ばれることでいわば大人の関係が保たれていたのではないだろうか。日本における台湾側の窓口として亜東関係協会(2017年5月に台湾日本関係協会と改称)、台湾における日本側の窓口として、日本台湾交流協会が設置されて公式には国交のない台湾とのそれぞれの代表機関としての役割を果たしている。   一時期ぎくしゃくした日台関係であったが次第に落ち着いて行ったと思う。社としても台湾へお出かけになるお客様の取り扱いも少しずつ復活していたし、自分自身、書芸家関係、つまり、書道の師範や書道教室のお弟子さんなどのグループをご案内して1982年の新春、台北や日月潭などを訪ねた。この時は、何と、台北で最も豪壮といわれていた圓山大飯店(Grand Hotel)に宿泊するという光栄な思いも味わった。伝統的かつ格式と由緒があり、世界的にも名前の通った有名ホテルであるが、しかし、実際には設備が古く、
メインテナンスが行き届いていないところもあり、必ずしも快適であったとは言えなかったという印象がある。台湾の父といわれる蒋介石が長年住んでいたところとして知られているが、それから2~30年過ぎた頃であり、依然として準戦時態勢下にあった80年代はこの名門ホテルも十分な手入れは難しかったのかもしれない。台北には今では新しいデラックスホテルもたくさんあり、その一方では、依然として圓山大飯店は台北の人々には誇り高いものであるらしく、きっと内部もリニューアルされて快適になっているのであろう。   82年のこの旅行では、台北に3泊した後、香港へ向かった。というわけで台湾は、60~80年代始めまでに数回訪れているが、香港などとの組み合わせで往復いずれかの途中で立ち寄ることが多く、この地だけを訪れることはなかった。それから3年後、1985年に初めて1週間訪れたのはアジア精神薄弱会議(当時の呼称)であり、参加者は大学教授や研究者、障がい者施設職員、家族や関係者、行政関係などの専門家が主であった。1976年頃から、知的障害関係分野の専門家の旅行をたくさんお世話させていただき、研究者、施設関係、教育、家族、行政など主目的は多少違っていてもリピーターの方が多く、いわば顔なじみ。仲間内のように接していただいていたおかげで当時から30年以上過ぎた今も年賀状を通してご交誼をいただいている方も多い。この時は、台北で一週間の滞在期間中はホテルと会議場にこもりきり、わずかに施設見学として、特殊教育(今でいう特別支援学校)や障害者施設などに出かけるため、市内を回ったと思う。とは言いながら、ほとんど記憶に残っていないのは認知症的傾向というよりは、市内に出ている時間が殆どなかったというべきかもしれない。何とも残念としか言いようがない一週間であった。
当時の記録を調べると訪問したことは間違いないし、利用した航空会社は、まさに日本アジア航空であったと明記している。その後、日本アジア航空は1992年に日本航空インターナショナルに吸収されており、今では、日台間には日本航空、全日空、ほかにもLCC(格安航空と呼ばれる航空会社)、台湾側からも中華航空、長栄(エヴァ―航空)などが入っており、2016年、日本からは189万人、台湾からは416万人がそれぞれを訪問しているという。航空路も東京は成田と羽田、そして、台北は桃園と松山の二路線、ほかに関空はじめ、中部など多くの空港と台湾が結ばれている。自分自身は、1985年以降、一度も台湾を訪れることはなかったが、昨年11月、何と32年ぶりに訪れたのであった。いわば浦島太郎もかくや、と言わんばかりの訪問であり、そのためには随分念入りな準備が必要であった。 次号からはそんなことを書かせていただきます。     (資料 上から順に) 日本アジア航空(ボーイング747-200) 資料借用 日本書藝家連盟 台湾・香港の旅 携行旅程表 1982年1月2日~7日 圓山大飯店(Grand Hotel) (今は、ホテルから見下ろすところに自動車専用道路が造ら れている。下を流れるのは基隆河) 資料借用     (2018/1/15) 小 野  鎭