2022.06.06 小野 鎭
一期一会 地球旅 220 パールロードから南イタリアを巡る旅(6)

一期一会 地球旅 【220】 パールロードから南イタリアを巡る旅(6)

 
ドブロブニク観光の目玉は旧市街地域と言って差し支えないとおもうが、多くのホテル等は旧市街周辺や新市街地域にある。この日、泊ったのもアドリア海に面した半島部分の傾斜地に建つリゾートホテルであった。建物そのものは階段状に部屋が並んでおり、自室からも芝生と花が咲き乱れ、その向こうには大型船などが行き交う海が広がっているというご機嫌な眺めを楽しむことが出来た。大小のグループ客も宿泊しているらしく、ロビーやレストランなどはかなりにぎやかであった。大型のホテルで、且つ、つくりも複雑でエレベーターや階段、通路など自室に行きつくまでの「道のり」は少々混乱気味であったが、落ち着いてみると快適であった。ここでも夕方到着するのではなく、もっと早く入館してゆとりを持つべきだと思ったが後の祭り。この日も長い行程であったので夕食後は翌日の市内見学の予習を終えるとそのままベッドインであった。
ドブロブニクはクロアチア、アドリア海沿岸のダルマチア地方最南部に位置している。前述したように、ボスニア・ヘルツェゴビナ唯一の海港であるネウムが回廊状態で分断しているため、クロアチア本土とは飛び地状態になっている。この町の旧市街は、1979年、世界遺産に登録され、「アドリア海の真珠」として謳われ、美しい街並みやその歴史からアドリア海沿岸、そしてクロアチアを代表する観光地となっており、多数のクルーズ船が寄港するほか、国内やイタリアなど地中海各地とフェリーでも結ばれている。 この町は、歴史的に海洋貿易で栄えた都市であり、中世にはラグーサ共和国と呼ばれ、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアと共に5つの海洋共和国に数えられ、アドリア海では、この町とライバルとなり得るところはヴェネツィアだけであった。
13世紀に共和制の自治都市(国家)となって以降、次々に宗主国が変わりながらも独自の立場で自治共和国としての地位を保持し、特に15~16世紀に大きく発展した。1970年代、恒久的に戦争による破壊 から自治権を守るため、非武装化されたが1991年のユーゴスラビア連邦崩壊に伴う紛争で、セルビア・モンテネグロ勢力によって7か月間包囲され、砲撃により大きな損害を被った。そのため、1991年に世界遺産は危機遺産とされたが、クロアチア政府と市民自らによる懸命の復旧作業で蘇り、1998年には危機遺産リストから解除された。 9月14日、旅は6日目、この旅行のハイライトの一つ、ドブロブニクの市内見学。午前9時に現地のガイド(男性、英語)と貸切バスが来て、この日の予定を確認。 午前中は旧市街を2時間見学、終了後は昼食から夕食まで自由行動。夕方再集合して旧市街にあるレストランへ行って夕食、その後、もう一度ホテルに戻って荷物を回収してフェリーターミナルへ移動、出国手続き、ヤドロ・ニニエ(アドリア・ライン)のフェリーでイタリアのバーリへ向けて出発というスケジュールであった。 旧市街は、ほぼ八角形に近い形をしており、新市街地と隔てて深い空堀状態の境があり、旧市街をぐるっと市壁(城壁)が取り囲んでいる。
高さ10~25mは有り、鉄壁の守りが為されていると見える。この町の起源は、ローマ帝国時代あるいはそれ以前に遡るといわれ、町のイタリア語名は、ラグーサ。一方、ドブロブニクという呼び方は、この辺りにはかつてオーク(樫の木)の森が広がり、古スラブ語でオークを意味するドブラーナ(Dobrana)が語源らしい(諸説あり)。この町の発展は、海洋交易によるものが大きく、巧みな外交術を駆使して交易を発展させ、都市国家としての自由を何よりも重んじてきたとある。近世では、フランス、オーストリア・ハンガリー、そして、ユーゴスラビア、さらにクロアチアに併合されて現在に至っている。市内見学中にこの町が何よりも自由を標榜して生き抜いてきたという説明を聞いたし、主要な城門であるピレ門を入ったところにある町の案内にもそのことが書かれていた。それにしても長径300mにも満たない市街から成るこの小さな都市国家が何世紀にもわたって、宗主国が幾度も変わりながら生き抜いてきた「したたかさ」に驚きを覚えた。旧市街の美しい風景だけでなく、伝統と栄光の輝きを失っていないことが「アドリア海の真珠」と讃えられる所以ではないだろうか。
ガイドの説明により、修道院や教会、メインストリートであるプラカ通りなどの見学を終えたのち、メンバー全員で市壁の上を一周した。石積みとレンガを交えたがっしりした造りで延長1900m、幅1~3m、起伏が多く、階段と坂道の繰り返しだった。この上からの眺めは壮大で、中心街を貫くプラカ通りの左右に櫛の歯のように狭く入り組んだ街路が見て取れる。宮殿、教会や修道院、商店や事務所、レストランやカフェなどの建物の赤い屋根がびっしり並んでおり、一角には高等学校もあり学生たちが勉強している様子も見て取れた。外海に面した崖は白い波が岩を噛んでいた。強い風が吹きつけ、小雨も降る中、コートを着たり、傘を開いたり閉じたりしながらの市壁めぐりは楽ではなかったが、興味深い1時間半であった。市壁には今もかつての戦争で傷んだ傷跡も残っているらしいがほとんどがきれいに修復されており、戦争博物館には悲惨な日々を過ごした数カ月間の様子が展示されていた。
午後は、市内バスで三々五々ホテルに戻って一休み、この日は22時発のフェリーで出発することになっており船中泊。クルーズ船のような豪華さは期待できないので線面具等を含めて出発に備えておかなければならない。夕方、再び、貸切バスで旧市街の東側の旧港に面したレストランで海鮮料理。クロアチアでの最終夕食であった。旧港は近くの島々との連絡船や遊覧船の発着で今も使われているが、往時はこの港が海洋交易の要として大小の船が出入りし、このあたりには倉庫や交易関係の業者や税関などもあり、たいへんな賑わいを呈していたことであろう。

(以下、次号)

写真&資料 (上から順に、ことわりのないものは筆者撮影) ドブロブニクのヴァラマール・ラクロマ・ホテルにて(2012年9月14日) ドブロブニクの旧市街はほとんどが赤い屋根(2012年9月14日) クロアチア内戦ドブロブニクの旧市街(EN Wikipedia資料より) ドブロブニク市街図(ドブロブニク観光事務所資料より) ドブロブニク旧市街を取り巻く市壁(城壁)の上にて(2012年9月14日) 喜色満面の男性メンバー(ドブロブニク・Poklisar レストラン(同上)