小野先生の一期一会地球旅③「初めての世界一周」

初めての世界一周

 小 野   鎭

航空便や運賃に関して「RTW」という業界用語がある。Round the Worldの略で世界一周を指している。RTWの規定は定かではないが、欧州とアメリカ大陸が含まれている場合はもちろんそうであろう。それ以外にも様々なRTWのかたちがあることは言うまでもない。つまり、「地球一回りすること」を指しているといってよいであろう。

 

前置きはそのくらいにして、私の場合は初めてのRTWは、1969年6月10日から7月14日までの35日間、海外医療事情視察団、全国の県立や市立など公立病院の医師、放射線や薬剤などの技師、管理者など総勢61名、病院がいくつかできそうな顔ぶれであった。2班に分かれて日本から欧州まで、欧州から米国大陸まで、そして太平洋区間は合同であったが、それぞれの大陸内では別々に動いた。私が受け持ったのは半分より少し少ない25~6名様であったと思う。もう1班の添乗は先輩社員であった。

 

ところが、この旅行の経路と航空便の詳細は分かるがそれ以上の細かいところがわからない。残念ながら、携行旅程を紛失しているためである。第1回目から今日まですべての添乗経験について団体名、旅行期間、旅行先、人数などを記録してきたことを以前に書いたが、「携行旅程」も保管していることも述べた。 これには、旅行日程、視察先、ホテル名のほかに、お客様の氏名、住所、勤務先または所属先役職名、電話番号など個人情報も列記されていた。一般募集の団体旅行では、このような個人情報は同じ旅行団内でも公表することは無いであろう。しかしながら、視察や研修、国際会議などの専門家グループの旅行は旅行会社が参加者を募集するのではなく、社団法人や財団法人など関係団体が参加の会員などに呼びかけて参加者を募り、その上で団が構成されるというのが一般的であった。旅行に先立って団員がそろって説明会も開催され、お互いに事前に顔を合わせるのがふつうであった。従って、携行旅程には前述したような個人情報が含められるのも当時としては極めて一般的であったといってよいであろう。

 

この「携行旅程」は今となっては、その内容からいっても私にとっては大切な宝物である。この携行旅程を次々に綴じては、添乗ごとにそれをまた携行して、それまでにご案内したお客様や主催者様(オーガナイザー)に旅先から絵葉書を書くことを常としていた。 この絵葉書作戦は、好評であった。航空便で送るが通常は1週間以上、どうかすると数週間後に配達されることもある。帰国後にお受け取りいただくこともあったが海外にあってもそのお客様のことを気にかけてくれているのだ、と喜ばれたのであろう。ところが、その冊子をある旅行中にどこかのホテルに置き忘れてしまった。 第1回から23回まで(1971年9月まで)が含まれており、痛恨の極みである。個人情報が含まれており、今ならば新聞沙汰にさえなりかねない失態である。これらの団体のお客様はお名前はじめ貴重な情報が残っていないのが何とも残念であり、申し訳ない思いである。

 

携行旅程の話題が長くなってしまったが、第1回目の旅行日程は、それでも当時の添乗記録から以下のルートであったことがわかる。羽田から日本航空でアンカレッジ経由デンマークのコペンハーゲンへ向かった。 3文字略語(スリーレターコード)で示すと次のようになる。 TYO-ANC-CPH-STO-AMS-LON-FRA-MUC-VIE-ZRH-MIL-VCE-ROM-MAD-PAR-NYC-WAS-CHI-LAS-LAX-SFO-HNL-TYO、つまり当時の医療先進国で代表的な都市を巡り、多分10数か所で有名病院などを見学し、一方で市内見学も楽しんでいただいた。何ともすさまじい日程である。

 

病院見学では、現地在住の通訳がいればよかったが、見つからないときは日本人商社マンの夫人や学生など現地語または英語の上手な人に通訳として来てもらった。しかしながら、20数名に対して1名の通訳では、なかなかむつかしく、さりとて院内で大きな声を出すわけにもいかない。お客様にしてみればそれぞれ専門分野を見たり、質問したいという個人的な希望は叶えてもらいにくく、満足いただけないことが多かった。また、通訳とはいっても医学や医療の専門語がよくわからず、先生方からは専門語は無理して訳さなくても良いから原語のまま言って欲しいといわれることもたびたびであった。

 

添乗員は、もっぱら人数を数えたり、病院に持参する記念品を運んだり、案内してくださる先方の医師など関係者の名前を書きとったり、資料集めなどいわば裏方若しくは便利屋としての役割を受け持っていた。この視察団で経験した病院や障害者施設などの専門視察の通訳や案内の要領については、その後、添乗の回数を重ねるごとにもっとうまくやることはできないのかと、考えるようになった。つまり、あらかじめその分野について勉強しておくとか、専門語もかじってみようとか、もっとうまく見学できる方法はないのか、通訳は自分でやることも可能ではないか、むしろ、自分でやった方がうまくいくのではないかという思いを抱くようになっていった。

アムステルダムにて

 

こうして、欧州内で3週間の旅程を終え、7月3日にパリのオルリー空港からニューヨークに向かった。ここも日本航空を利用した。この時代、我が国は高度成長経済まっただ中、日本航空も成長著しく、パンナム(パン・アメリカン航空)、BOAC(英国海外航空)に次いで悲願の世界一周の路線網を保持していた。その日、オルリー空港には、もう一機、尾翼に鶴丸マークが見えていた。あれに乗ると日本に帰ることができるのに・・・ 海外添乗は7回目であったが、3週間の視察旅行のお供で心身ともにかなり疲れていたし、初めてのアメリカ大陸への旅行は大きな不安と、一方では期待と好奇心が入り混じった複雑な思いを抱きつつ、JL001 空の貴婦人といわれたDC-8に身をゆだねて大西洋を渡った。

 

8時間後、眼下に摩天楼が見えてきた。そして巨大なケネディ空港に着いた。そのころには、オルリー空港で抱いていた感傷もすっかり癒えており、いよいよ夢にまで見ていたアメリカに来たのだ!という武者震いにも似た思いでお客様の先頭に立った。入国管理官の前に立ち、「I am the Tour Conductor of the Doctors Group. The purposes of this trip are Hospital visits and sightseeing .  The Length of the stay in your country is about twelve days.」などと夢中でしゃべったような気がする。とにかく、脇の下に汗をかいていたことだけは今もよく覚えている。マンハッタンのミッドタウンのホテルに泊まり、翌日は7月4日、五番街で独立記念日のパレードがあり、まぶしいほどかっこよかったことを思い出す。 エンパイア・ステートビル、国連本部、ロックフェラーセンター、セントラルパーク、ハーレム街、そして自由の女神も遠望した。次第にアメリカを実感するようになっていった。超高層ビルの谷間から見上げるニューヨークの空は広いというよりは四角に見えたことが今も思い出される。その後、ニューヨークへは7~80回くらいは訪れているだろう、そして、いろいろな思い出もあり一番印象的な町である。このことについては、いずれ、改めて書きたいと思う。

 

ワシントンDC、シカゴ、ラスベガス、ロサンジェルスと回り、サンフランシスコに着いたのは7月10日、日本を発って一カ月が過ぎていた。ここで久しぶりにもう1班と出会い、先輩添乗員にこれまでの苦労や失敗、わからなかったことなどを伝えた。そして、随分心が軽くなったことを感じた。残り数日、何とか頑張って最後まで全うしなくては! サンフランシスコの市内見学では、金門橋(Golden Gate Bridge)やオークランド・ベイブリッジなども眺めた。ガイドの説明を聞いているうちに、背伸びすると太平洋の向こうに東京タワーが見えるかもしれませんよ、といわれ思わず爪先立ちしたい思いであった。

先輩添乗員と   桑港にて

 

ここではもう一つ強烈な印象があったことを思い出す。 金門橋やベイブリッジはいずれも1933年頃建設が開始され、数年後に完成している。また、ラスベガス近くにあるフーヴァーダムも同じころ建設されている。テネシー州一帯のTVA(テネシー川渓谷総合開発事業)など国家プロジェクトと言われるような大型の公共工事が大恐慌(1929年)で溢れた失業者を救済することなどを含めて経済復興上大きく位置づけられていたと聞いている。

 

このような大型の公共事業だけでなく、ハリウッドでは、名画「風と共に去りぬ」がそれから数年後1939年に製作されている。この時期は、昭和8~14年ごろにあたり、わが国ではしだいに軍部の勢力が強くなり、やがて日中~太平洋戦争へと進んでいった。当時のアメリカの底力をもっと多くの日本の識者が見て、より冷静に判断していれば、あるいはあの悲惨な戦争は、もしかすると起こさなくても済んだのではないか。そう思うと、この国と戦争をしたことが悔やまれてならなかった。サンフランシスコ湾にかかる長大橋を見ながら思ったことが懐かしい。それからハワイを経て、35日目に帰国した。

ハワイ・パンチボールにて

その後、医療や福祉関係の視察や研修、国際会議などほとんど専門的にこの分野の仕事を担当し、営業範囲を広げていったが、初めてのこの世界一周視察旅行の添乗は自分にとっては記念すべき経験であった。

 

資 料 

  1. 数次旅券

1960年代後期には、たびたび海外へ出る人には数次旅券を取得することができるようになっていた。最初の二度は一回旅券であったが、67年には初の数次旅券を取得、そして、初の世界一周の69年には早くも2冊目の数次を取得していた。今の旅券には、This passport is valid for all countries and areas unless otherwise endorsed.とある。つまり、必要な条件さえ整えば、世界中の国や地域に対して有効である、と明記されている。 しかしながら、60年代の数次には、訪れてよい国の名前がそれぞれ列記されている。つまり、予め予想されている訪問国の名前を旅券に記載してもらっておく必要があり、もし、記載されていない国に行くときはその都度、国名追記が必要であった。私の旅券にも37か国が記載されており、旅券発給申請書に添付する旅行計画書は恐ろしく複雑な日程であった。当時、旅行代理店の優秀な営業マンは代書も得意であった。

渡航先国名
  1. 米国査証

この旅券には、記念すべき米国査証B-1(非居住者一時訪問)のスタンプがあり、有効期間そのものは4年間の数次ビザであった。これでやっと一人前になってきたのだと何やら誇らしい思いであった。そこには、Jul.3,1969 とあり、記念すべき初の米国入国であった。

米国入国査証
  1. 外貨購入許可

旅券には、査証欄の後に、「渡航費用に関する証明」という欄が設けられている。そこには、外貨(通常米ドル)を購入するための許可番号が書き込まれている。為銀と呼ばれる外国為替銀行は最初は年に一回500ドルまで、次いでその都度、500ドルまで、やがて1000、2000ドルまでと制限が緩和されていった。もし、為銀制限以上に必要な場合は、日銀に特別許可の申請が必要であった。いずれにしても、外貨購入には、許可が必要でその許可番号と購入した金額が書き込まれている。ついでに旅行ごとに持ち出した日本円まで金額が書かれている。まさに海外旅行時代到来の黎明期であった。

外貨購入記録
  1. 検疫証明(Yellow Book)

旅券には、黄色い検疫証明のノートを挟み込んで持ち歩いた。通称Yellow Bookである。 この時代、ほとんどの国の入国にあたっては、検疫が行われ、日本出発前に天然痘の予防接種を受けておく必要があった。アフリカや南米に行くときは黄熱病の予防注射も必要な国または地域があった。(これは今も必要な国や地域がある) 余談であるが、検疫とはQuarantineと表現されている。 14世紀ごろ、ヴェネツイア共和国では、ペストの大流行の後、疫病が船で訪れる外国人から伝染するということで、疫病の潜伏期間に近い40日間(Quaranta)港の外に停泊させて、問題が無ければそののち入港させたそうである。検疫=Quarantineの語源についてそのように聞いたことがある。

Yellow Book

(2014/5/03)

写真は、上から、アムステルダム コンセルト・ヘヴォウ管弦楽団 ホール前にて

        サンフランシスコで先輩社員と

        ハワイ・ホノルル パンチボールにて

        旅券の国名一覧

        米国入国査証

        外貨購入記録

        検疫証明書