小野先生の一期一会地球旅⑤「東南アジア農業事情視察団 添乗記」

東南アジア農業事情視察団 添乗記

 小野 鎭

 FTS 入社当時 (2)最初に入社したのは、藤田航空サービス(後、藤田トラベルサービス)であったが、4年半後に明治航空サービスに移った。前者は、藤田観光チェーンの一つであり、外旅(In-bound)にも強く、業界ではいわゆる名門企業であった。社員数も250人を超え、東京本社のほかに、大阪支社、名古屋営業所、在日米軍の座間基地内にも事務所を置くなど、当時の時代背景がなんとなく想像されるような構成であった。ところが、後者は社長以下8人の小さな会社であった。当然、前者はIATA  Agentであったし、後者(明治)はNon-IATAであった。つまり、国際航空運送協会(IATA)加盟航空会社の代理店であるか、そうではないか、という違いがあった。国際線航空券発券の資格を有していない会社(旅行代理店)は、IATA代理店と契約をして航空券を入手していた。

藤田で航空券の発券業務を担当していた筆者は、これら契約代理店の担当者との接触も多かった。明治は小さな会社ではあったが団体旅行に強く、必然的にグループ運賃による発券も多く、それも欧米が多かった。複雑な経路での運賃計算とその後の発券で苦労することも多かった。当時は、すべてが手作業であり、かなりの手間と時間がかかっていたので、先方の担当者からは、「いつも面倒かけてすまないね。」と恐縮がられることがよくあり、ちょっといい気分であった。ある日、先方の営業部長から、うちに来ないか、と誘いを受け、その後もいろいろ話を聞いているうちに少しずつ心が動いていった。

明治は、大手製菓会社の系列か?といわれたりしたが、そうではなく、農協系の金融機関である農林中央金庫の関連会社であり、農協団体はじめ関連グループや公益法人などの専門視察団体に強く、必然的に社員が添乗する機会も多かった。当時は、添乗員派遣組織もまだ生まれておらず、営業社員などがそのまま添乗することが多かった。企画、営業、手配、添乗と一貫して担当して旅行添乗中にさらに顔を広め、評判を得てお客様の覚えを良くして、営業先を発掘し、顧客先を増やしていくことが大きな使命でもあった。

旅行業で仕事をしたい、という願いの根底には自分の目で世界を見てみたいという願望があった。旅行好きということはその分だけ、お客様の気持ちを理解しながらお世話をするのだから・・などと勝手な解釈をして旅行業に勤しんでいた。しかしながら、それはお客様サービスよりも自分の希望を優先させることであり、はなはだ不遜な考えであり、お客様には申し訳ないことである。それに気付いたのは、それからもっと先のことであった。

藤田は、銀座6丁目のビルにあり、そこから大手町の農協ビルの地下1階の一室にある小さなオフィスに移るということにはかなりの不安もあった。しかしながら、件の営業部長から聞いた「寄らば大樹の陰」というよりは、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という考え方のほうが好きだ、という言葉に刺激され、数か月間熟慮した後、明治へ移った。1968年10月であった。

明治は、前述したように農林中金系であり、顧客先は農協関係の全国団体はじめ県中、単協などの農業団体、さらには共済連病院等からの紹介で厚生省始め医療関係団体の取り扱いも増えていた。そんな背景から、入社して勉強しなければならなかったのは海外団体旅行の仕組みなどもさることながら、農協関係組織のこと、海外の協同組合や病院など専門視察に関わる多種多様な事柄であった。加えて、視察先の発掘と訪問希望の申し入れをするための英文レターの作成は大きな業務であった。独語も仏語も多少わかれば大いに役立った。日常業務のほかに語学をやはりもっと磨かなければ、と痛感するようになった。

藤田では、新入社員当時は英会話が苦手であったが、当時の営業部長はハワイ生まれの二世であり、毎朝7時半には出社、そしてFEN(Far-East Network=米軍極東放送)を聞きながらひげを剃るのが日課であった。加えて、筆者が配属されていた予約課の課長もどうやら二世らしく、この部長と課長は通常の会話は英語であった。そこで、筆者も毎朝7時過ぎには出社して、部長から英語で話しかけられるのを楽しみにして文字通りBrush upしてもらっていた。 次第に英会話は苦手ではなくなってきていた。 そして、毎朝7時過ぎには出社して始業までの時間を自分なりに有効に使うことが習慣づいていき、それは50年過ぎた今も変わらない。

さて、藤田時代に英会話は次第に慣れてきて、海外へ出てもそれなりの用は足せるようになってはいたが、視察希望先への英文レター作成には別の難しさがあり、明治の先輩社員からサンプルを見せてもらっては何とかそれらしい英文を作っては、英文タイプをたたくことに明け暮れする日々であった。

そして、入社間もない1968年10月31日に東南アジア農業事情視察団の添乗で出かけた。ある県中(農協中央会)の主催で農協(単協)の組合長や県中職員など20名。タイ、シンガポール、カンボジア、香港、台湾と回ってきた。各国の農協など農業団体訪問、農家や水田など農場見学、そして社会事情探訪(市内観光)の11日間であった。写真やメモは残っていないので、現地事情などを詳述することはできないが、この旅行ではいくつか印象深いことがあるので書いてみたい。

1)          AF193便 エールフランス南回りパリ行き。 TYO-HKG-SGN-BKKということでバンコクに着くまでに香港、サイゴン(現ホーチミン)に寄港している。多分、バンコクの後、インドのニューデリーまたはボンベイ(現ムンバイ)、そしてイスラエルのテル・アヴィヴを経てパリへ向かっているはずである。このころ、アジア各国の経済力はまだ弱く、欧州の主要航空会社や日本航空、パンナムなどが経済要因やかつての植民地などの宗主国として関係の深い都市に寄っていく南回りルートがまだまだ多かった。 寄港地では機外へ出ることが可能な場合は、空港ターミナルまで行き、その国の雰囲気を少しだけでも味わってくることが楽しみであった。

実は、この便で、社でお世話しているもう一つのグループがさらにテル・アヴィヴへ向かっている。11月4日から行われる国際身体障害者スポーツ大会(パラリンピックの前身)の応援団であった。さらに言えば、この大会に出場する選手の旅行準備も社でお世話しており、その数日前に羽田空港で下肢マヒの選手を背負ったりしてタラップを上り、機内へご案内した。これが、筆者にとっては障がいのある方の旅行のお世話をした初めての経験であった。

2)          バンコクは勿論初めてであったが、いまは東南アジア屈指の大都市。しかしながら当時は中心街にも高層ビルはほとんどなく、托鉢をする僧侶に手を合わせる町の人の穏やかな顔、水上マーケットの賑わい、そして一歩町を出るとどこまでも続く水田とのんびりした農村の様子が今も思い出される。当時から、米は輸出されていたと思うが、大生産地はバンコクよりも北の大平野一帯であり、そこまで見に行くことはしなかった。

3)          シンガポールは、1965年にマレーシア連邦から分離独立して数年の小さな国、今日の繁栄などは想像もつかない港町のたたずまいであった。国土が淡路島くらいの広さしかないこの国では農業といっても島の北側のゴム林と隣り合った畑作地などしかなく、それも自家消費やわずかばかり周辺の町に出荷されている程度であり、野菜等はマレーシアから輸入されていたと思う。

ral-dc3[1]4)          カンボジア  シンガポールからプノンペンを経てシャムリャップへ向かった。ロイヤル・エール・カンボジ RAC(カンボジア航空)のDC-6、DC-3といった機種であり、いまは博物館に行かなければお目にかかれないであろう。後者は、第二次大戦前に造られた航空機であるが、1960年代後半のこの時代、ローカル線では依然として現役であった。トンレサップ湖の上をプロペラの音も高くジャングルの中に伸びた滑走路へむけて下降していった。

この時期、すでにアンコール・ワットなどの遺跡群は世界的にも知られており、日本からの観光客も少しずつ訪れるようになっていたが、ホテルなどの観光客受け入れについては素朴な施設が殆どであった。ベッドに仰向けになって見上げると天井にヤモリが張り付いており、ときどきペタっと床に落ちてキキキっと鳴いていた。現地ではトッケというそうであるがこの鳴き声から来ているのかもしれない。トンレサップ湖の周りには、水田が広がっており、米作を主体とした農業で合作社と呼ばれる農民組織があった。

カンボジアにはその後も二度ほど訪れているが毎回RACのお世話になった。小さな会社ゆえ、乗組員(スチュワーデスなど)とは時々同じ顔に出会うこともあり、素朴な人柄にはいつも親しみが持てた。ところが、70年代半ばにクメール・ルージュの勢力が強まってポル・ポト政権による圧政はこの国を恐怖の地へと導いていった。あの豊かな水田地帯では原始共産制という仕組みのもとに多くの人たちが強制労働に駆り立てられ、貨幣や宗教も否定されたという。そして、大量処刑が行われ、殺戮の巷に変わっていったそうである。 この国が生まれ変わったのはそれから四半世紀後であった。

The Killing Fields  (2)40数年前、この国でいつも笑顔を見せてくれていた航空会社の職員、ホテルのスタッフたち、そして現地で案内してくれたガイドや旅行会社のスタッフたち、さらにはその人たちの家族などの中には恐怖政治の犠牲になった人たちもあるかもしれない。アメリカ人ジャーナリストのシドニー・シャンバーグの体験をもとに書かれた「The Killing Fields」(クリストファー・ハドソン著 水野とおる訳 角川文庫)に描かれた世界を読みながら、あの人たちはその後、どのような道をたどったのであろうか、今は平和に暮らしているのだろうか、今も心が痛む。

その後、単協だけでなく、農協の全国組織である全国経済連(現在の全農)や共済連、地域計画センターなどの視察もお供した。70~80年代は、オレンジの自由化、農協組織の改組はじめ多くの変化があり、海外の協同組合や農業構造改善といったテーマでの視察はいずれもむつかしい内容であった。  次回は、その中から、欧州の協同組合やオランダの干拓事業視察などについて少し書いてみたい。

(2014/05/16)

写真  最初   藤田航空サービス時代 入社の年 社員旅行(1964年)

    中ほど  DC-3 同型機 (資料拝借)

    最後   キリング・フィールド 角川文庫 表紙