2014.06.11 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅⑧ 海外教育事情視察団添乗記(その1ブラジル)

一期一会 地球旅

海外教育事情視察団添乗記(その1 ブラジル)

  70年代に入り、我が国は高度経済成長の勢いがさらに加速して右肩上がりという言葉がよく使われるようになってきた。70年には、大阪万博(EXPO70)が半年にわたって開催され、期間中の来場者数は6400万人であったとか。当時の総人口(1億466万)の6割以上が訪れたことになる。これは世界的に見ても空前のことであり、それより多いのは2010年の上海万博7300万人だけらしい。(もっともこちらは、1千万枚の無料入場券が配られたとか、国営企業の社員や公立学校の学生たちが強制的に入場させられたとかいろいろな裏話の報道も読んだことがあるが・・・・) わが国では、戦後も25年が過ぎ、次第に国民全体の生活も豊かになってきて3Cといわれるクルマ、クーラー、カラーテレビも次第に普及し始めていた。そして、企業戦士とか猛烈社員などといった言葉も使われるようになってきていた。一方では、公害や騒音といった社会問題も出現してきており、高度成長経済の影の部分もたくさんあった。   この時代、旅行業界では、パッケージツアーが盛んになり、ハワイなどへのハネムーンも流行になってきていた。輸出が大幅に伸びたことなどから我が国の外貨準備高も増大し、海外旅行に必要な外貨購入枠も当初の年1回500ドルから、回数の制限がなくなって1回500ドルまで、やがて700ドル、そして2000ドルまでと徐々に緩和されていった。そして、1ドル=360円であったものが、70年には315円、翌年は300円くらいに上昇していった。 海外視察旅行もますます盛んになり、多くの視察団が特に欧米先進国を訪れるようになってきていた。国際化時代の到来に備えて学校の先生方に海外の教育や社会事情などを見聞させて時代を担う青少年の育成に資してもらおうという趣旨から海外教育事情視察団が派遣されることになった。71年度(昭和46年度)後期からであったと思う。当初は、校長や地方自治体の教育委員会の管理職などで30日間の長期派遣であったが、間もなく都道府県など自治体単位での16日間 一般教員などによる短期も実施されるようになった。   筆者は、長短それぞれ4回ずつ担当した。いずれも団編成は、25~30名前後、一定条件のもとに団員が選抜され、長期は、1泊2日の事前研修が東京・代々木の青少年スポーツセンターで開催された。訪問国の国情や都市事情、視察国の教育事情、渡航手続きや旅行準備などについて事前学習である。全国から選抜された先生方であり、誇らしさと明るさにあふれる一方、これから訪れる未知の世界に対して期待と緊張がみなぎった様子であった。団構成は、団長(国から指名)、団員は3班編成、各班に班長、渉外(通訳兼務)、進行、写真、記録、庶務、会計などの役割があり、団員はそれぞれ何かの役割を担当した。   主たる視察国と訪問都市(学校見学など教育事情視察)、従視察国(社会事情など見学)は原則として、国(文部省)から指定された。最初のころは、年間数団であったが、年を経るごとに派遣団数も増え、加えて、短期が始まり、訪問国や都市選びは難題となっていった。訪問国の国情や日本との関係、安全第一、そして、できるだけ幅広く世界各地に目を向けることが必要である。ところが、先生方にしてみれば有名国や有名都市にはぜひ行ってみたい、あまり知名度の高くないところや親近感がわかない国もあり、派遣先と人数配分は次第にむつかしくなってきたらしい。そうは言いながらもロンドンやパリ、ローマ、ニューヨークやサンフランシスコなどの観光地や美術館・博物館、土産物店には日本の学校の先生が良く目についたものである。制服こそ着用しておられないが、自由行動といっても数名以上で動かなければ事故やトラブルに巻き込まれてはいけない、訪れたところは報告や土産話のためにもどこへ行ってもまず写真撮影、絵葉書、土産物、などここでは学校で見られる威厳などはなく、平均的日本人観光客のスタイルであった。   教育事視察は、在外公館(大使館など)が手配されていたので訪問国に到着するとまずは大使館に挨拶して、国情やその地域の概要、学校視察のプログラムについて説明を聞き、実際の学校視察などに臨むというスタイルであった。団長挨拶、教育事情の把握、学校の様子を聞き、クラスやクラブ活動などを見学する。訪問先への記念品の贈呈、渉外班の先生方は交替で通訳(主として英語)、写真撮影、記録班はそれぞれ細かく記録、進行係は時間管理と人数把握、庶務は、健康管理や団員の様子把握と翌日の服装についての説明、会計は、会食や土産物代などの個人負担金額などの計算など、というわけで先生方にとっても修学旅行?であったといえよう。   長期は、世界一周や太平洋一回りなどの大規模なコースが多く、短期は、欧州、北米、オセアニア、東南アジアなどを回ることが多かった。そこで、筆者が担当した長期の一例を紹介してみたい。1972年10月19日出発~11月17日帰国の30日間である。コースは、東京~パリ~マドリッド~サンパウロ~リオデジャネイロ~ブエノスアイレス~サンチャゴ~リマ~クスコ~パナマ~ロサンジェルス~ホノルル~東京。 名実ともにきわめてスケールの大きな世界一周である。飛行距離だけでも43,600㎞余である。しかも南米訪問は、この事業では初の試みであり、主催者である文部省からは、担当会社ならびに添乗業務いずれもしっかりやってほしいと念を押された。   この団の団長は、当時、本省のキャリアの課長であった。小職が担当するようにとの命を受けたのは、当時、スペイン語を多少かじっていたこと、医療や福祉関係を主として担当していたが行政との接触も慣れてきていたこと、1ヶ月空けても社の経営には差支えなどはないであろうこと、などが背景にあったらしい。 選ばれたことは大変誇らしく思ったが現地事情などの勉強は大変であった。ホームページなどという便利なものはなかったし、「地球の歩き方」ももちろんなかった。南米に行ったことのある先輩社員にいろいろ聞いたり、在日大使館に聞きに行ったり、海外移住協会などに行って現地事情や旅行のヒントを教えてもらったりした。   こうして、団長以下30名は、羽田からモスクワ経由パリへ向けて勇躍出発した。
パリで市内見学、次いでマドリッドへ行き、オプショナルツアーで古都トレドを訪ねた。そして、いよいよ大西洋を南下、ブラジルのサンパウロへ向かった。当時からサンパウロは南半球最大の都市といわれていたが、中心街の高層ビル、どこまでも広がる市街、亜熱帯特有の濃い緑の街路樹や広い公園、そして何ともにぎやかなパウリスタ(サンパウロっ子)、人種のるつぼといわれるブラジルとはこうゆうところなのかと、これまで訪れていたヨーロッパやアメリカとはまた違った雰囲気に圧倒される思いであった。中心街には、Viaducto do Chaという橋がある。日系人の間では「お茶の水橋」と呼ばれており、ガイドブックにもそのように紹介されている。また、ガルボン・ブエノという通りがあり、一帯は日系人の多い地域として知られている。日本語の看板や赤ちょうちんなども下がっていたことを思い出す。地球の裏側の異郷の地で見る日本字や日系人の姿に、一行は改めて日本人移民がこの地域にたくさん住んでいることを感慨深く感じたことであった。   このグループの主たる教育事情視察は、ここサンパウロと次のアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで予定されていた。学校見学等の手配は、それぞれサンパウロ総領事館とアルゼンチン日本大使館で準備が進められていた。明日からの視察へ向けて、グループごとに集まり、持参する記念品を確認したり、あいさつ文を考えたり、渉外班の先生方は学校見学の際の通訳に備えて緊張しておられる様子が感じられた。もっとも添乗員である筆者も渉外班に組み入れられているのでその気持ちはよくわかるような気がした。残念ながら、この団の報告書は残っていないので、携行旅程に残っているメモや残っているわずかばかりの資料や記憶から当時のことを書いてみたい。   学校見学として、サンパウロから1時間半くらい離れたモジ・ダス・クルーゼス(Mogi dasCruzes)という町へ出かけた。サンパウロの町は海抜800m位の高原地帯に広がっており、郊外へ出ると赤茶けた大地が広がり、濃い緑の灌木や畑作地帯が広がっていた。灌木は、コーヒーだと聞いてシャッター音がひとしお大きくなったことを覚えている。モジ・ダス・クルーゼスのことを地元の日系の人たちは「モジ」と略称していた。ブラジルへの日本人移民は1908年に笠戸丸で入植した人たちが最初と記録されているが、多くが艱難辛苦を強いられたそうである。そして、このモジ一帯には1919年頃から日本人移民が入植してもっぱら野菜を栽培してきたと聞いた。日本人の作る蔬菜類は大消費地サンパウロの市場でも 大変評判がよかったそうである。   この町では午前と午後で2校訪ねたと思うが、今も印象に残っているのは、
Colegio Estadual Dr.Sentaro Takaoka 現地では、「タカオカ センタロー学校」と呼んでいたが、小学校から高等学校までを含めたサンパウロ州立の学校であった。学生数がどのくらいあったかなどは分からないが、7割以上が日系の子どもたちであったと聞いたような気がする。クラスを見学すると日系が圧倒的に多く、白人系、そして黒人系なども交じっていた。ブラジルでの初めての日本人医師として、日本人移民始め現地の人々の医療や健康管理に尽くされた高岡専太郎医師の名前を冠した学校であった。黒板には、日の丸が描かれ、歓迎 Bem-vindo と書いてあった。教室に入っていくと児童が大歓迎してくれたことを今も覚えている。   ところで、サンパウロでの視察は総領事館と日系人会などで気を利かしていただき、現地在住の日系の人たちが日本語/ポルトガル語の通訳として同行してもらった。結果として、渉外班の先生たちの出番はほとんどなくなってしまった。多分、内心ではホッとされていたようである。学校では、校長の挨拶と教育事情、子どもたちの様子などについて説明があり、その後、学校内を3班に分かれて見学した。子どもたちは貧しい身なりの子どもが多かったが、とにかく明るく親近感が持て、先生方もおおらかな様子がうかがえた。 校舎を出ると、運動場というよりは広い緑地があった。あの頃から子どもたちはきっと暇さえあれば、サッカーに興じていたことであろう。その後、ホテルに戻るとその日に見学したことについて振り返って記録をまとめたり、翌日の見学に備えたり、団長以下班長、渉外班などは総領事館に挨拶行ったり、忙しかった。
サンパウロでは、さらに2日間、小学校や中学、高校や専門学校なども訪ねたが細かい記録は残っていないので、ここは勘弁していただきたい。   サンパウロから陸路500㎞、かつてはブラジルの首都であったリオデジャネイロへ向かった。大型バスで雄大な自然を眺めながら走ることは、航空機での移動と違ってとても興味深い経験である。 運転手は、ポルトガル語しか話さないので、筆者はポルトガル語の会話集を片手に怪しげなスペイン語も交えてとにかく車窓風景やリオまでの道路、途中での休憩や昼食などを打ち合わせた(つもりである)。標高が少しずつ下がっていき、緑濃い丘陵地にはコーヒー栽培の農園が見え隠れしていた。そして、時々疎林が広がり、その中に2m近い茶色の三角錐のような土盛りがあり、どう考えても人工のものではない。これについて、運転手に尋ねた(西語でケー エス エスト?)ところ、聞いていること自体、なかなかわからず、苦労したが、やっと意味が通じて、「Monticulo  de  Formiga」との答えであった。そして、渉外の先生にも手伝ってもらい、やっと「アリ塚」ということがわかった。アリ塚のことは聞いたことはあっても見るのは初めてであり、それも想像以上に巨大であったのが驚きであった。見るもの聞くものすべてが珍しかった。   世界三大美港の一つといわれていたリオの景色は素晴らしく、
パン・デ・アスーカル(砂糖パンの山)やコルコヴァードの丘の上に立つ巨大なキリスト像が今も懐かしく思い出される。リオ・デ・ジャネイロ:山と海に囲まれたキャリオカ(リオっ子)の景観は2012年 世界遺産になった。当時も丘陵地のあちこちにはファヴェーラ(Favele=スラム/貧民街)が遠望された。巨大なマラカナン競技場、当時は観客席20万人、桁違いの大きさに驚いた。その後、事故が起きて、収容人数は8万人くらいに縮小されたそうであるが、いよいよサッカーのワールドカップ開催、ブラジル各地で試合は行われるそうであるが、平穏に、そして世界中を熱狂させて無事終了することを願ってやまない。   リオの後、次の視察地アルゼンチンのブエノスアイレスに向かった。ここでは、予想もしない問題が起きた。 まさに青天の霹靂とはあのようなことを言うのだろう。今、思い出してもあれほど衝撃的な経験はあまりない。このことについては次号で書きたい。     (2014/6/8)

小野 鎭

(資料)

スペインの古都トレドにて(この翌日、大西洋を南下、ブラジルへ向かった)

Colegio Estadual Dr.Sentaro Takaokaタカオカ・センタロー学校 (モジ市)

サンパウロ市内の小学校(何の授業であったかは覚えていない)

同上 外観

リオデジャネイロ・コルコヴァードの丘のキリスト像