2014.06.18 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅⑨海外教育事情視察団添乗(その2 アルゼンチン)

一期一会 地球旅

海外教育事情視察団に添乗して (その2 アルゼンチンでの経験)

ブラジルでの滞在を終えてアルゼンチンのブエノスアイレスへ向かった。エセイサ空港から町へ向かうにつれて緑濃く瀟洒な家が続き、ヨーロッパを思わせる風景であった。そろそろ夏に向かう頃であり、空はどこまでも青く美しかった。ブエノスアイレスの中心街を貫く7月9日通り(Av.9 de Julio)はパリのシャンゼリゼよりも幅の広い大通り、両側には、9~10階建てのビルが並び、スケールの大きな、美しい街路に目を見張ったことを思い出す。この町は、南米第2の大河ラプラタ川の右岸に位置しているが、川沿いのレティロ公園の向こう側には小型機の空港まである。対岸はウルグァイの首都モンテビデオであろうが、まるで見えず、ただ黄色く濁った水面は水平線まで何も見えなかった。地図を見ると河口付近の川幅は100㎞以上もあるらしい。 ここは、アルゼンチンタンゴの本場、戦後日本でもタンゴが流行していたので「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」や藤沢蘭子のファンだったとおっしゃる方も多く、タンゴバーに出かけた人もあった。カーニョ・カトルセであったかもしれない。 勿論、タンゴ発祥の地といわれている「ボカ」も市内視察で訪れた。何とも可愛らしい風情であった。シンガポールのマーライオン、コペンハーゲンの人魚像、ブリュッセルの小便小僧など名の通った名所があるが、実際に訪れてみるとどこも可愛らしく、そしてあっ気ないほど小粒であることが多い。ここも同じであった。どこも多くの旅人が言い伝えているうちに実際以上にその存在が大きくなっていくこともあるらしい。
ブエノスアイレスでも3日間の教育事情視察が予定されていた。2日目の学校見学中であったと思うが、大使館から学校に電話があり、添乗員(Chefe de gruppo)を呼び出してほしい、とのことで、急ぎ、職員室へ行った。電話では、次の目的地チリのサンチャゴでは、数日来の政情不安がさらに高まり、市内では混乱が起きそうである。空港も閉鎖されるかもしれないのでサンチャゴに行くことは見合わせるほうが良いのではないか、とのことであった。今回の行程は、ここが終わった後、サンチャゴヘ行き、一泊してそのあとペルーのリマへ行くことになっている。 当時、チリは左翼のアジェンデ政権であったが、経済失策などが続き、このところ悪性のインフレ、物資の困窮などから社会混乱が常態化してきており、極右と極左の衝突などもあって社会混乱が益々増大しているとのことであった。日本出発前からある程度のことは聞いていたがそれが現実に起きるとは寝耳に水、まさに青天の霹靂といった感じであった。 学校見学の合間に、団長に報告した後、より詳細に状況を把握するべく在アルゼンチン日本国大使館に出向いた。 大使館には、チリの日本大使館からの情報が詳しく伝えられており、現地在住の日本人もかなり緊張している。まだサンチャゴ空港が閉鎖されたり、市内で騒乱が起きたりしているというわけではないが、どのような状態になるかは予断を許さないとのことであった。無事、サンチャゴに入れたとしても、現地で混乱に巻き込まれたり、もし、空港が閉鎖されたりしたらそのまま足止めを食うことになるかもしれない、とのことであった。隣国のことであるので、邦人保護の立場からも大使館としては旅行中の日本人や商社マンなどの滞在者には、予め在留届や何らかの通知がしてあれば今回のような情報は知らされると思う。しかし、届けていない旅行者などはそのような緊迫した情報であっても伝わらなかったであろう。 当時は、テレビなどもまだホテルの部屋には無かったような気がする。 我々は国から派遣された団体であり、アルゼンチンで公務があり、それも大使館手配によるものであるので当然かもしれない。それにしても隣国にある大使館から早々と情報が寄せられるとは、とちょっと驚いた。後日、気づいたことであるが、今回の団長は本省の現職課長である。従って、公務が無く、たとえ1泊の滞在であってもそのような場合は在外公館に情報が通達されていたらしい。 大使館には、情報をいただいたお礼を申し上げ、団で協議し、これからの行動をどうすべきか、また、必要な支援をいただきたい、とお願いして、ホテルへ戻った。団長以下班長始め首脳陣と今後の動きについて検討会が行われた。 その結果、ブエノスアイレスの滞在を1日延泊し、その後、ペルーのリマへ行き、原状復帰する。そのために必要な手配の変更をすることになった。 そのことを大使館に連絡し、それからはホテル、航空会社のカウンター、現地手配会社のBUE支社などを夢中で走り回り、各所とのやり取りはさらにホテルの部屋から電話で各所といくどもやり取りなど、超多忙な時が過ぎていった。西語はほとんど用を為さなかったが、下手な英語でも腹さえ決めれば、と頑張って主張した。やるべきことは、次のようなことであった。
  1. ブエノスアイレスの本来の日程は完全消化し、1日の延長日は、視察のまとめと休養に充てる。
  2. ホテルの延泊申し入れ
  3. ブエノスアイレス~リマ間の一日遅れの航空便の確保
  4. 発着地の空港/ホテル間の送迎サービス
  5. 食事や市内視察などの時間調整など
  6. 大使館から日本の文部省に連絡を願う一方、団からも旅程変更を余儀なくされることについての正式な許可の申請と必要な支援の要請
  7. 社への経過報告と今後の動きについて相談と承認願い
  8. 日程変更に伴う経費の発生はどうするか?
当時の旅行業約款は明確には覚えていないが、戦争や紛争などに伴う旅程の変更について旅行会社は免責されていたはずである。とはいえ、少しでも経費の発生は抑えること旨としてホテルや航空会社とは交渉したことを覚えている。 ところが、ホテルも現地手配会社もこのような切迫した事情を訴えても最初は真剣には取り合ってくれなかった。チリの不安定な状態は数年前から続いており、南米の各地でたびたび政情不安が起きることは珍しいことではなく、よほどのことでない限り、市民もあまり血相変えることはしなかったらしい。 勿論、流血の惨事などになれば大問題であるが、その時のチリの状態は“オオカミ少年”のような話に受け取られて、そんなに大騒ぎする必要はないのでは?というのが彼らの姿勢であった。 ラテン人気質ということか? このような問題が起きた時の交渉事には心臓第一、押しの一手である。 フロント内でマネジャーやスタッフたちがスペイン語であれこれ相談しているが、筆者にもわかる言葉があり、つなぎ合わせていくと、どのように対応しようとしているかは、こちらにもわかっているのだ、と格好をつけた。負けたらおしまいである。とにかく一歩も引かないつもりで臨んだと記憶している。 会社や文部省との連絡は国際電話である。 携帯電話だとかメールなどという便利なものはもちろんないし、第一 パソコンもなかった。国際電話はダイヤル直通ではなく、ホテルのオペレーターに申込み、そこから国際電話局に申し込んでもらい日本へつないでもらう。 つながるまで数十分はかかるし、日本とは地球の裏側同志、時差はちょうど12時間、つまり同じ時間でも朝と夜の違いがある。 幾度かやり取りし、しっかりやるようにと激励や指示を受け、日本を背負っているような気概であったのかもしれない。 この時は、騒動が予想されるので事前に回避しようということであり、相手にしてみれば旅程変更は、Involuntary Change ではなく、Voluntary Changeということになってくる。つまり、不可抗力による変更願いではなく、任意の変更ということになり、費用発生の可能性がある。 そこで、大使館からも事情を説明してもらい、事情を“切々と訴えて”何とか理解してもらいたい、と半分泣き落としも演じて、結局、航空会社、ホテル、との交渉は成功した。 そして、航空運賃は追加費用や変更手数料は不要、ブエノスアイレスの1泊延長分は、オペレーター(地上手配会社)にサンチャゴの宿泊費を振り替えてもらい、2日前の取り消しであるが全額手数料なしにしてもらうことに成功した。 肝心な当地での部屋の延泊は30名の部屋数をほとんど確保できた。 また、航空便も一日遅れのブエノスアイレスからリマへの便の席を予約することができた。実は、天佑としか言えないのであるが、サンチャゴからリマへ行く便は、当初予定していたアルゼンチン航空がBUE~SCL(サンチャゴ)~LIMと飛ぶことになっており、予約の確保は比較的容易であったのではないか。ただし、サンチャゴの空港が閉鎖されるとか、チリの情勢が悪化した時は、サンチャゴには寄港はしない、ということが条件であったと思う。 30名の宿泊や航空便を伴う直前手配変更は、今は容易ではあるまい、そして、それに伴う違約金や変更手数料も不要で済ませることはその条件や社会環境などにもよるが多分、至難であるかもしれない。良き時代であり、おおらかな人間性、大使館の支援、添乗員の厚かましさと一方で泣き落とし、などが功を奏したのかもしれない。 こうして、一日遅れでブエノスアイレスを発ち、結局、心配した混乱も起きなかったのでサンチャゴに寄港し、予定通り、ペルーのリマへ向かった。 むしろ、搭乗していたAR機がサンチャゴに降りる直前にエアポケットに入ったのか、気流が悪かったのか大きく揺れて、肘掛けを握る手に力が入ったことを思い出す。窓の外には、ところどころ雪をかぶった南米の最高峰アコンカグアが手を伸ばせば届きそうなところに見えていた。当時の地図では高さ7035mとなっていたが、今では6960mとなっている。噴火したなどとは聞いていないので測量方法が改められて、高度が変わったのであろう。
リマのあと、インカ帝国の首都であったクスコ、そして幻の天空の都市「マチュピチュ」も訪れた。1983年に世界(複合)遺産になったが70年代前半のころはまだひっそりしていたし、整備もされていなかったのでまさにはるか昔の遺跡そのものといった様子であった。今日では、クスコからマチュピチュまで、ペルー鉄道のハイラム・ビンガム号というデラックスな車両が走っているが、当時は、素朴な山岳鉄道といったおもむきであった。沿線風景も田舎そのもの、何十年か前に造られたであろう車両は「川崎車両」または「近畿車両」という小さな札が壁に打ち付けてあり、こんなところにも日本製の車両が来ているのだと思うと何とも誇らしい思いをしたことを覚えている。 この後、またリマを経て、パナマ、ロサンジェルス、ハワイに寄って30日目に無事、当初の予定通り、帰国した。これまでに世界一周は20回くらい経験しているが、南米を廻ったこの時の旅行はその中でも特に印象深いものである。アルゼンチンでの旅程変更を余儀なくされたことについては、予定通り、しかも経費も追加負担することなく帰国できたことをたいへん喜んでいただけたし、ブラジルとアルゼンチンという南米の二大国で得難い経験をすることができたとその後も長く語り種となっていたと聞いている。また、この時の旅行代金は、756,800円と書き残している。 当時の筆者の月給は、多分6万円くらいだったと思う。 最後に後日談を一つ書かせていただこう。 チリのアジェンデ政権は、それから1年近く後、1973年9月11日に崩壊したことが報じられている。

  (写真など) 上から ブエノスアイレス ラ・プラタ河畔にて。 ブエノスアイレス 学校のグラウンド(だったと思う)。 携行旅程には旅程変更の便名などメモの書き込み有。 マチュピチュの駅 やはり服装は大事、遺跡の「視察」ですから! マチュピチュの遺跡にて (筆者撮影、絵葉書にあらず)。 (2014/6/10)

小野 鎭