2014.07.01 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅⑪海外教育事情視察団添乗(その4ビルマのこと)

一期一会 地球旅

海外教育事情視察団に添乗して その4 ビルマ(ミャンマー)のこと

  海外教育事情視察団の添乗で経験したことをもういちど書かせていただこう。インドからフランスなどを廻って1年後、74年2月1日からひと月、アジア、オセアニアさらにはタヒチと回るコースに添乗した。そこで、ビルマのラングーン(現在では、ミャンマーのヤンゴンと称すべきであるが、当時の呼称を使わせていただく)でのことを書いてみたい。   ビルマ(現ミャンマー)は1948年に英国の植民地支配から独立し、1974年にはビルマ連邦社会主義共和国となっていた。 
1962年のクーデター以後、司法・行政・立法の三権は革命評議会(ネ・ウィン議長)によって独占されていたが、我々が訪れた74年2月ごろには徐々に民間移管が行われている時代であった(と報告書に記述有)。 在ラングーン日本国大使館の書記官から国情などを伺った後、教育省副大臣表敬訪問の後、基礎教育局を訪ねている。局長始め幹部からこの国の教育事情を聞いた。新興国家として建国の意気に満ち、この国の教育普及に打ち込んでいる様子がひしひしと伝わってくる、とある。細部にわたる事情は措くとして当時の教育目標として掲げられていたものの中から2つ紹介したい。   1.基礎教育を受けることによって、健康で道徳的な身体的、知的労働者の育成を図る。 2.社会主義へのビルマ的方法に対する理解と信念を持ち、社会主義的社会を建設し、擁護する市民を育成する。  
この国が、建国ののち、社会主義思想を普及させて国を発展させていこうとする40年前の当時の社会的な背景がわかるような気がする。この学校教育目標を掲げる一方、当時ビルマ政府が学校教育に対する以上に強い熱意をもって取り組んでいたのが識字運動であった。データは明確ではないかもしれないが、1953年にある地域で行った15~55歳に対する調査では文盲率が36.2%であったとか。当時はそれより20年後であり、識字率はもっと高かったとは思うが、依然としてその必要性が高く、国として取り組む必要があったということであろう。 1980年には全国民を文盲から解放するという計画が立ててられていた。そのための教師陣として、大学、カレッジ、教員養成カレッジ、高校の学生まで総動員されている。これら学生などに対して、当時の教育大臣ニイニイ博士は、「報酬を与えることはできない。しかし、名誉を与える」と激励したそうである。建国の意識を高揚させようとしていた姿勢がうかがえる。  
さて、そのような国の方針を聞いた後、学校見学に移った。初等教育、中等教育、さらに高等教育と数校を訪ねているが多くは、いずれの学校も物理的にはとても厳しい状況であったと思われる。市内の小学校を見学したが、たとえば100名ぐらいの児童が一つの教室で後ろと前にそれぞれ教師がいて、二つの授業を同時並行で行っていたのは驚きであった。この学校では、800人定員のところに2,000人以上が入っているためだったそうである。筆者自身、昭和23年に小学校に入学しているが、それから数年後に戦後のベビーブーム(のちの団塊の世代)が学齢となり、町の中学では学年ごとに10数クラスあるということも珍しくなかった。 当時のビルマではそれを上回る状態であったのであろう。   聞きかじりであるが、アウン・サン・スーチーさんはそのころはすでに英国のオックスフォードで哲学・政治学などを収められたのち、国連など国際政治の場で活躍されていたそうだ。その後、ミャンマーで長い苦闘の末、この国を変えようとしておられる。この国が軍政による支配を脱してミャンマー連邦共和国として再生するまでには長い時間がかかり、さらに今、大きく生まれ変わろうとしている様子を聞くにつけ興味深い。首都はネピドーに移ったが、近年この国最大の都市ヤンゴンには経済成長に期待を寄せる外資系企業の進出が著しいそうである。現地では、オフイスの供給量が足りず、事務所の賃料はシンガポールより4割も高く東南アジアでは突出しているという記事を最近の日経新聞で見た。数年前から大きく動き出したこの国がさらに熱くなってきているということであろう。   数年前、旅行業専門学校で旅行業や世界遺産を講じていた時、ミャンマーからの留学生が居た。彼女は、旅行業を学び、国際感覚を養いながら、将来はミャンマーを世界に紹介したいと目を輝かせていた。その熱意は筆者も驚くほどで、日本の学生にもその気概を少し感じてほしいとさえ思ったことであった。この稿の準備をしていたとき、2014年の世界遺産委員会が開催されており、「ピュー族の古代都市群」がミャンマー初の世界遺産として登録されたというニュースを聞いた。きっと、あの学生も喜んでいることだろう。おめでとう!   硬派の話で終わるのは申し訳ないので、下世話な話をいくつか加えたい。   我々がこの国を訪れたのは、2月の上旬であったが、首都ラングーン市の郊外にある美しいインヤ湖畔のホテル(今はヤンゴン有数のホテルと聞く)に泊まっていた。 2日目の夕方であっただろうか、トラックが何台も来て、大小の岩石を運び込んでいた。直径といおうか高さといおうか数十cmから小さな石ころまでかなりの量であった。 しかも軍隊か警察かわからないが制服や私服などたくさんの人物が銃を片手に警備しており、物々しい様子であった。団員の先生方も興味津々、ちょっと厳しい感じも受けながら、ホテルのフロントに聞きに行った。その結果、明日から宝石市が開かれるとのことであった。  
ミャンマーは昔も今も世界的な宝石の産地だそうで、当時は厳重な国家管理のもとに原石採掘、輸送、取引、が行われており、この国の経済の一端を担う大きな存在であった。宝石産業はいまも公的に管理されているらしい。次々にトラックが運び込んでいたのはその原石で、大きなものはホテルの敷地内にそのまま置かれ、小さなものはホテル内に厳重保管されることになっていたらしい。夕方、庭先に出てみるとその原石が並べられていた。 ホテルの敷地への入り口そのものが厳重に警備されているせいか、肝心の原石の周囲にはあまり厳しさは感じられず写真を撮ることもできた。あの石ころはヒスイやルビー、サファイヤ、虎目石などの原石であって一個で家1軒が買えそうな値段であったかもしれない。 大きくなくてもいい、せめて小さな石ころでもいいから2,3個拾って帰りたいなあ・・・と想像することだけなら許されるだろう、など考えつつ、ホテルの部屋に戻った。  
ラングーン(現ヤンゴン)はイラワジ川に面した港町であるが、我々が訪れた当時、市内には植民地時代の古い建物や廃墟のように荒れ果てた建物が連なり、傷んだ街路を行きかうロンジー(ミャンマーの伝統的な巻きスカート)姿の人たちがあった。そして女性たちは、頬紅ならぬ頬白をつけていた。 タナカーという木の汁を絞ってこれを塗るのだそうだ。汗を抑えてさわやかさを味わえるこの国独特の化粧方法である。この伝統的な化粧は今もこの国の女性たちには愛用されていると聞いている。また、この国第一の名刹シュヴェダゴン・パゴダにはたくさんの善良な市民たちが参拝していた。この国の穏やかで信心深い人たちの優しい笑顔が懐かしく思い出される。   こうして、ビルマの視察を終え、さらにオーストラリアのメルボルン、タスマニアはホバートで教育事情視察に臨んだ。ここでは、OZ(オージー)英語の洗礼を受けた。話には聞いていたが、“Good day mites = グッダイ マイツ”に代表される豪州人の英語の発音がなかなか聞き取れず幾度も聞きなおさなければならなかった。 それでも、相手はかなり気を遣って発音してくれているのに苦労したのはまだこちらの英語そのものが下手であることに原因があるがそれにしても辛かった。それでも、数日後タスマニアに着いたころにはだいぶわかるようになってきた。その後、オーストラリアには、児童福祉や医療、発達障害関係、老人給食会議等で10数回訪れているが、その都度、1~2日でOZ英語の勘を取り戻したような気がする。若い頃はそれなりに感覚も鋭かったのかもしれない。  
この時はオーストラリアの後、ニュージーランドを経て、遂には、日付変更線を越えてタヒチに至った。フランス海外県ポリネシアは当時、“最後の楽園”といわれていた。 ブロードウェイのミュージカル「南太平洋」は1958年に映画化され、学生時代にこの映画を見て感動した。実際の撮影はハワイのカウアイ島で行われたそうであるが、舞台は南太平洋。タヒチ島パペーテの向かい側にモーレア島があり、魅惑の島バリハイのモデルであった。
タヒチは憧れの島、いやがうえにも感動を湧きあがらせてくれた。先生方の中にも「南太平洋」を見た方がおられ、みんなで感激したことが懐かしい。 学校教育の先生方を地上最後の楽園まで行かせていただけたとは! 今、思うと何とも良き時代であった。  
4回にわたって、1970年代前半の海外教育事情視察団に添乗してきたことを書きながら当時の訪問国の様子などをほんの一部だけ紹介させていただいた。 これらの視察団はじめ当時たくさんの先生方が世界各地の教育や社会事情、歴史・文化を見聞されたわけであるが、どなたもたくさんの刺激を受けられ、多くのものを感じられたことを報告書などから読み取ることができる。それぞれの学校で子供たちにどのように話されたであろうか、国際化時代を前にして、文部省(現文部科学省)で実施されたこの事業に関わることができたことを今も感謝している。   (2014/6/28)  小野 鎭

(資料等 上から)

教育省 教育副大臣(Dr. Nyi Nyi)表敬訪問

識字運動資金源として売られている絵葉書(頬に白いタナカー)

すし詰めの教室風景(小学校)

宝石市に陳列されている原石(ホテル敷地内)

シュヴェダゴン・パゴダ 境内

モーレア島(ソシエテ諸島) ここでも多くはスーツ姿でした。

タヒチのナマコは巨大!

視察団の行程図