2014.08.11 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅⑰社会福祉施設処遇技術調査研究 研修事業添乗

一期一会 地球旅

「社会福祉施設処遇技術調査研究並びに研修事業」に添乗して 

 【その2】 思わぬ事故と四八会

73年のときは、プラハには3泊4日滞在後ローマを経て、スイスのジュネーブへ行った。ここで思わぬ事故が起きた。女性団員の一人が自動車事故に遭われたのである。自由時間にかなりのお客様を中心街にある時計店に案内していたところ、店員の一人から「先ほど、日本人が自動車事故に遭われたらしい」という話を聞いて驚いた。名前や性別など詳しいことはもちろんわからないが、うちのメンバーかもしれない? もっと詳しく調べてほしい、と店員に相談した。そこで、得た情報は次のようなことであった。①とにかく警察に聞いてみること、 ②日本総領事館でわかるかもしれない、③カントン(州立)病院(救急病院)に聞いてみること、等々。 とにかくあちらこちらに電話をかけて聞いてもらったところ、被害者は女性で名前もわかり、自分たちの団員の一人と同姓同名であった。ホテルに戻り、本部(事務局)に報告して病院に赴いた。不幸な予想は的中し、病院にはその女性が救急室におられて同室の団員が付き添っておられた。 幸い、命に別条がないことがわかり、ちょっとだけ安心した。 診断の結果、腸骨のどこかに小さな骨折があるらしく、そのまま10日~2週間程度の入院加療が必要であろうとのことであった。
同室者の話では、中心街のモンブラン大通りの橋の上でレマン湖をバックに写真を撮り、その後、通りを横切って反対側へ渡ろうと車道に出たところタクシーにはねられたとか。たまたま車が通っていなかったので、広い通りではあるが向こう側までは急いで渡れると思われたらしい。横断歩道ではなく、車道そのものであり、思い出すと恐ろしいことであるが、それほど車も通っておらず、のんびりした情景であったのかもしれない。旅行の一カ月くらい前の説明会で案内した旅行傷害保険が役立つ不幸な出来事であった。 結局、そのお客様は一行から離脱して二週間入院、その間、現地手配会社でガイドを手配してもらい、時々様子を見てもらうことにした。移動するごとに現地手配会社から様子を伝えてもらうと同時にこちらからも電話して徐々に回復しておられる様子を知り、次第に心が軽くなっていった。 その後、ジュネーブからガイドに付き添ってもらって車いすを使用して最終地ロンドンへ飛んで来ていただき、一緒に帰国された。帰国後、保険会社からは、加害者(?)であるタクシーの会社から、事故を起こしたクルマの損傷について請求があった、と聞いて国情の違いに驚いたことであった。 先輩たちからよく聞いていたことであったが、以後の説明会では、どんなことがあっても横断歩道を渡ること、極端な場合、指一本でも横断歩道に接して置いてほしい、と案内することにした。 ジュネーブからパリ~ドイツのハノーヴァー、さらにストックホルムへ行った。北欧の福祉ということについては誰もが強い関心を持っており、そのなかでもスウェーデンは団員のだれもが一番見学を希望している国であった。残念ながら、この73年の報告書は残っていないが冒頭に書いた施設点描や携行旅程、わずかばかり残っている写真などを見ているといくつかの際立ったことが思い出される。 知的障害者関係では、当時、日本で言われていた収容施設がスウェーデンでは大きな居住型施設から次第に小規模化され始めていた。グループ住宅であるとか普通のアパートを利用して個室や二人部屋、大きな部屋であっても3DKに7人などといった居住の場が設営されたりしていた。通所施設では社会生活への適応技術を学ばせる訓練や庇護授産施設で木工や織物、車の部品組立などを担当させて一定額の賃金を払うことなども行われていた。ノーマライゼーションという考え方が広まっていた時代であったと思う。 老人福祉関係では、ケアを必要とする人たちへの老人ホーム
、ケアは必要としないが何らかの配慮のある高齢者向けのアパートや年金受給者ホーム(Pensionershem)などが作られていた。いずれも可能な限り老人たちに自力で生活を営ませること、プライバシーを尊重すること、より弱いものへ細心の配慮をすることなどが基本的な理念として置かれていた。たとえば、ストックホルム市内にあるシッゲボウ苑(Siggeborgården)老人ホームは鉄筋4階建て、居室は夫婦部屋のほかはすべてが個室で、各階のところどころに談話室兼食堂があった。入居者が快適に過ごせるように建設費の2~5%を館内/室内の装飾や調度品の整備に充てることも行われたとある。 多くの場合、老人ホームや高齢者アパートは単体としてあるのではなく、1階部分または隣接して余暇サービスセンター(Leisure & Services Center for Pensioners)などの利用施設が併設されていた。そのホームやアパート在住の人たち、近隣住区に住んでいる人たち向けに映画や音楽会、手芸、教養講座などがある。設備としては、理・美容室や足の手入れ、図書室、レストランがあり、市価の半額程度で利用することができる、などのサービスがあった。これらの施設は70年代になって作られ始めたものが多く、「施設点描」で紹介されている施設には居住施設と併せて、この頃すでに余暇サービスなど地域福祉の充実にも視点が置かれていたことが感じられる。 様々な施設や設備、サービスや専門職の業務や役割を見学しながら団員はいずれもうらやましく思うと同時にこれだけのサービスを行うための経費はどうなっているのだろう、とさらに興味が深まっていた。多くは、利用者が年金の中から一定額を負担し、残りを国や自治体が負担しているとの説明であった。当時から所得税が30%以上などといわれていたのでやはり高福祉のためには高負担が伴うし、タバコやアルコールなどの税金、物価が高いことなど旅行中にも様々な経験をしながら実感としても受け止めておられたと思う。 スウェーデンでの見学を終えた後、最終地ロンドンでも「ゆりかごから墓場まで」といわれた福祉の実際を見学したが、それから2年後にまた別の研修団でお供した。 このころは少しずつ通訳もしていたので、その時の印象の方がより強い、そこで、英国のことは改めてまた書かせていただきたい。 実は、この時は、最終地ロンドンでもう一人のお客様が体調を損なわれた。事務局の一人であったが、数日前から体調不良を訴えておられ、食欲もなかったらしい。帰国前夜に腹部の痛みで我慢できない、とのことで、ホテルから医師(GP=General Practitioner )を呼んでもらった。どうやら、胃潰瘍か十二指腸潰瘍ではないか、救急を要することではないだろうが、このまま十数時間の飛行は無理だと思われるので、数日間ホテルで安静にして投薬で大丈夫だろう、とのことであった。 日本であれば入院という手段が取られたと思うが、この時はそこまでの診断は為されなかった。 朝にはだいぶ落ち着かれ、事務局のもう一人が付き添って残られることになった。そして、現地手配会社に応援を頼み、団は予定通り帰国した。そのお客様は、3~4日して小康を得られ、無事帰国された。 後から言われたことであるが、この大型研修団の運営は容易ではなかった。大人数での施設見学、途中では一機に乗り切れず2班に分かれての移動もあったため、団の動きは必ずしもスムーズでは無かった。団員は、それぞれ訪問先について視察記録を書くことになっており、旅行終了時には、報告書(指定の様式)を提出することが求められていた。但し、写真は今と違って、帰国後仕上げるのがふつうであった。団員は、いずれも見学した後、夕方ホテルへ戻ると夕食、そのあと少しだけ夕方のそぞろ歩きやナイトツアー、それから深夜の報告書作成があった。 
とはいっても通訳から聞いたメモを読み返すだけでも一苦労、訪問先でもらった資料はほとんど現地語でお手上げ、ということもあったらしい。担当ごとにグループで話し合いが行われて、内容を確かめてそれから執筆。結果としては深夜になってもなかなか終わらず、朝は眠い目をこすって・・・という人も多かった。報告書は帰国後にしてほしいとか、いや、旅行中でなければ帰国後では提出しない人も出てくるであろう、内容はもっと簡素化できないのかなどと様々な意見や要求が寄せられていた。本部事務局では団長や団員代表を交えて幾度か話し合いなども行われた。幸い日程が進むにつれて、事務局側も団員側も少しずつ旅行に慣れて、動きが良くなっていった。 施設見学の間にジュネーブからシャモニーまで足を伸ばしてモンブラン観光を楽しまれたことやパリまでの鉄道の旅やライン川の船旅では和気あいあい話が弾み、心地よい揺れに疲れが取れたのかもしれない。 殆どの団員にとって初めての海外研修であったが、団員はいずれも元気いっぱいで探求心も旺盛、我々添乗員は先々のホテルなどについて手配会社と再確認、視察先の資料を集めることや施設の所在地を地図上で細かく調べて時間通り うまく団を動かすことを心がける一方、朝から深夜まで動き回った。複雑な視察プログラムや忙しい日程、ハプニングの多い25日間ではあったが、団員の結束は固く、旅行中にいつとはなしに「四八回=よんぱちかい」が結成されて一年後の再会が約束された。そして一年ぶりの研修(任意)には61人中、30名近い人が全国から集まられた。 さらにそれから10年後に韓国、そして結成20周年目はインドネシアのバリ島に10数名が出かけられ、筆者もお供させていただいた。 四八回は、結成されて四半世紀近く続き、様々な研修や会議などで当時の団員諸氏が再会を喜んだり、施設職員の相互研修が行われたり、より良い施設サービスや運営管理を目指すうえで積極的に活動されていたと聞いている。構成メンバー各位の熱意と、この会を代表された社会福祉法人大阪自彊館の理事長であった故吉村靫生氏のお人柄と指導力に拠るところも大きかったと思う。 資 料  (上から順に) l  ジュネーブのモンブラン橋(Pont du Mont Blanc)  レマン湖から流れ出すローヌ川にかかる橋。市内でも特に交通量の多いところ。(資料 借用) l  シッゲボウ苑(Siggeborgården)老人ホーム  今も高齢者サービスホームとして使われているとのこと。(資料 借用) l  シャモニーのエギュ・ドゥ・ミディ(3842m)にて。 この日、モンブラン観光からジュネーブにもどった夕方、お客様が自動車事故に遭われた。(おことわり:被災されたのはこの写真の方ではありません。) (2014/8/11) 小野 鎭