2014.08.26 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅⑲「社会福祉施設処遇技術調査研究と研修事業」

一期一会 地球旅 19

「社会福祉施設処遇技術調査研究並びに研修事業」に添乗して  その4 カナダにて

社会福祉調査会では、それまでの欧州への研修団を昭和51年度(76年度)から北米を加えた2班に分けられることになった。人数は各班30名前後、日数も若干短縮された。理由は、社会保障制度の整備充実と併せて福祉全般に長い歴史と伝統のあるヨーロッパであるが、近年関係者間で特に身体障害や精神薄弱(当時の呼称)分野では評価の高いカナダやアメリカにおける研究や福祉、サービスの在り方を研修させようという趣旨からであった。(51年度 報告書より) 取扱会社も2社となり、明治航空では北米を担当させていただいた。ヨーロッパの厚生分野での視察や研修旅行が増えており、それにつれて旅行会社も受注面で競争が激しくなってきていた。それに比して、米加方面は、第1次産業、第2次産業始め第3次産業でもサービス業などの視察は多かったが、医療や福祉関係はまだそれほど多くなく、得意とする会社も少なかった。社では、それまでの実績から障害者福祉や訓練、研究など専門職のお得意様も次第に増えてきていた。主催団体ではそのような背景も忖度してくださり、北米班の取り扱いをご下命くださったのであろうと思う。 この年(76年)の研修団は、別の社員が担当し筆者はワシントンDCで開催された国際精神薄弱研究会議(IASSMD)などに飛び回っていた。 実はIASSMD会議出席者のお供をしたことはそれ以後の視察研修などへも大きな学びがあり、ある意味でその後の生き方にも関わるインパクトの強いものであった。 米国における発達障害関係の福祉やサービス、研究について多くのことを見聞したし、それがその後も大きく役立ったことを今も感謝している。こうして、77年の添乗に至るが、この時は後輩のH君と二人で担当した。彼は、筆者の卒業校での10年ほど後輩であるが、英語も堪能であった。
福祉や協同組合関係等のお客様のウケもよく、加えて、筆者と違ってアルコールもほどほどに強い人物であった。多くの仕事を彼と組んでやることが多く、強い味方であり、今も畏友である。この時の日程は、10月5日から27日までの23日間、主要研修地はカナダのバンク―ヴァー、トロント、モントリオール、米国のニューヨーク、ワシントンDC、クリーブランド、ロサンジェルスであった。 報告書を読み返してみると、団長報告の中で特徴的なことが述べられている。 要約すると、「両国を通じて、共通して団員の関心を強くそそったことは施設再編論ともいうべき障害者処遇に関する基本理念の変革とそれに基づくプログラム等諸施策の確立へ向けて関係機関(者)の熱意ある取り組み姿勢であった。 特に、カナダでは、1974年に障害者対策の所管が従来の精神衛生省から人材資源省(Ministry of Human Resources)へ移管されたこと、障害者対策の基本方針が長い歴史を持つ施設収容処遇方式から、コミュニティ・ケアへと大きな変革が行われつつあるということであった。現在、公私機関が一体となってこの基本理念の普及啓発とその具象化に向かって驚くほどの情熱を燃やしている姿がひしひしと感じられた。」 さらに続く、「確かに大規模収容施設(Institution)では、その運営および障害者処遇に多くの難しい問題があったであろうことは容易に想像できるし、これに比して最も近い環境づくりを目指して小舎制的なハウスやグループホームが、障害者の処遇上あらゆる面に於いて優れた方法であることは容易に理解できる。ただ、現実の問題として家族の無理解や地域社会の受け入れ態勢などの面で根強い抵抗のあることも事実。 また新たに多くの専門家と資金を必要とすることなども関係者は認めており、当分の間は試行錯誤が繰り返されるであろうが、今日的課題としてその成否が将来に注目される施策であることと痛感した」とある。  (英語表記は、筆者が付記)
19世紀末から20世紀始めにかけて欧米の国々では知的障害あるいは精神障害があると診られた人たちは、施設収容というかたちで処遇されることが多かった。特に北米では、次第にその規模が巨大化して数千人もの人たちが広大な敷地に建てられた幾棟もの建物に数十人ずつ起居させられていた。「ノーマライゼーション」については、最初はデンマークのバンク・ミケルセンが提唱したと聞いている。60年代になって、このような巨大施設における処遇の在り方に疑問を投げかけ、その人たちが普通の人間として社会の中で当たり前に生きていくための地域や施設づくりとサービス、そして時間の流れが求められるとしてスウェーデンの社会学者ベント・ニルエによって一層強く訴えられてきた。筆者は、この数年後に二度ほどニルエ博士にお目にかかる機会があり、大変光栄な思いをした。加えて、後述するG.ディヴォア博士にもお会いしている。このようなことについても改めて書かせていただきたい。
バンク―ヴァーにあるブリティッシュ・コロンビア州立大学(UBC)の社会福祉学部M.C.デハーン教授(Prof.M.C.Dehaan)から聞いた話は衝撃的であった。当時の巨大施設をどのようにして段階的に取り壊していくかそのための施策はどのように作っていくのか、ということでこの時期ではまだ確たる方法は構築されておらず、重度の知的障害者の福祉ということについて様々な議論と試行が行われていた時代背景を示していたように思える。要旨は次の通りである。 BC州およびカナダの精神薄弱児(者)の福祉・教育及びその他のサービスは、過去80年間、州の精神衛生法の下で施設収容を主体とした処遇、すなわち、施設で対象者をケア・コントロールすることが伝統的に基本理念とされてきた。 70年代後半当時、州内には、Woodlands 1400名、他 2施設で800名、さらに精神病者(当時の表現)1ヶ所350名があった。これらの施設では施設収容を主とした医学的ケアが行われてきた。これらの大型施設とは別に家族やボランティアが組織するBC州精神薄弱者協会(Association for Retarded Citizens 通称ARC)があり、州内各所に小規模で地域や利用者のニーズに合わせた様々な施設やプログラムが行われていた。居住施設も徐々に地域主体のものがつくられ始めていた。一方で養護学校も開設するなどの活動も行っていた。これらのサービスや活動には州からの助成金も出されていた。そこで、前述のWoodlandsについての再編成計画について説明があった。
バンク―ヴァー郊外のニューウエストミンスターに1878年に精神障害者などの治療・収容施設として造られていたこの施設を76年1月に訪れた米国の社会学者G・ディヴォア(Dr.Gunnar Dybwad)は、この施設の療育、看護、一人当たりの居室の面積などに様々な問題があり、この施設は閉鎖されるべきであると新聞に報じたことから大きな社会問題になった。州の担当大臣も施設の現状を視察しディヴォアの意見には同感したが、当時は、いちどきにこの施設を閉鎖するにはまだ社会基盤が整っておらず、そのための様々なプログラ
ムを準備し、地域社会の受け入れを含めて徐々に施設整備(Phase Down)していくこととなった。研修団がバンク―ヴァーを訪れたのはまさにそのような議論が為されていた頃であったと思われる。プログラムとして当時挙げられていたものは、 Infant Stimulation(早期幼児指導訓練)、Pre-School、Kindergarten、Foster Parents System(里親)、家庭におけるTherapeutic Program(セラピー)、Sheltered Workshop(庇護授産施設)などであり、これらのプログラムによって地域社会で家庭に於いて乳幼児期から養育しようと目指したものであった。 州政府によるこのプログラムでは、精神薄弱児(者)を収容施設という隔離された環境に於いて処遇するものでなく、家庭や地域の中でたとえばグループホームなどで家族と共に生活し、家庭から通学し、作業訓練を受けていくのだというインテグレーション=社会統合(Integration)への試みが検討されていたのであろう。 人間として、ごく普通に、ごく当然のこととして行われていくべき、その営みが彼らにも与えられるべきであるという理念に基づいている。 ホームケアは今でいう在宅ケアの仕組みも作られ始めていた。しかしながら、この段階的施設整備へのプログラム実施については、地域社会への啓蒙(と報告書には書かれている)や障害者に対する理解度など、彼らが人間らしい生活を獲得するまでには幾多の難問があることが指摘されていた。考えられる問題としては、①様々な専門家の不足、②専門家の養成機関の未整備、③地域社会での受け入れについての理解が不十分、④膨大な経費などがあり、数千人もの精神障害者を地域へ返していくことがいかにむつかしいかがうかがわれた。
このWoodlands Institution(昔は、Asylum for the Insane = 精神異常者の保護施設と呼ばれていたとある) が最終的に閉鎖されたのは1996年であったとホームページで紹介されている。その敷地跡に造られたWoodlands Memorial Gardenには3000人以上の人が眠っているとか。巨大施設の段階的取り壊しには20年以上もの長い年月を要したということであろうか。 この時は、Woodlands そのものは訪問していないのでこれについての感想は書かれていないが、米国でもニューヨークはじめ各所で巨大施設における様々な問題(various issues)は述べられた。そして、ロサンジェルスでは少し縮小され始めていたパシフィック州立病院(Pacific State Hospital)を見学して巨大施設における処遇の実態を目の当たりにされて大きな衝撃を受けておられたことを覚えている。 筆者は、巨大施設の段階的閉鎖(Phase down)へ向けての実例を70年代後半から80年代にかけてスウェーデン、英国、そしてカナダ、米国などで見てきた。この時のグループだけでなく、いろいろな研修団などで脱施設化ということについての議論に加わることがよくあった。そこで、自分が見聞してきたDe-Institutionalizationの様子を説明させていただいたが、少しわかってきた、といわれてうれしかったことを思い出す。 資料(上から順に) 昭和52年度(1977年度) 研修団の報告書 Dr.Bengt Nirje  ノーマライゼーションの基本理念  (下は、You Tube) http://www.disabilityhistorywiki.org/leadership/presentationpage.asp?presentation=6   ブリテイッシュ・コロンビア州立大学(UBC)での講義(左端に筆者:通訳) ウッドランズ州立療育施設(1976年当時 2葉 資料借用)               ウッドランズ・メモリアル・ガーデン(公園墓地など)https://www.youtube.com/watch?v=NJcZEYGEzEE (ウッドランズ You Tube) (2014/8/18)   小野 鎭