小野先生の一期一会地球旅㉑「社会福祉施設処遇技術調査研究と研修事業」

一期一会 地球旅 21

「社会福祉施設処遇技術調査研究並びに研修事業」に添乗して

その6 米国各地で

もう一度だけ、77年の研修団のときの見聞について書かせていただきたい。

ワシントンDCでは、連邦保健教育福祉省(通称DHEW = Department of Health, Education and Welfare)を訪ねた。米国では、保健衛生、福祉や教育などの直接的な業務は州に移管されているので、ここでは、公共福祉(Public Welfare)、リハビリテーション、発達障害などについての総体的な説明を受けた。その中でも、印象的であったことがいくつかある。 福祉を英語で言うと、一般にはWelfareと訳されているが、主として要保護児家庭補助(AFDC=Aid for Families with Dependent Children)、フードスタンプ(Food Stamp=食料割引購入のスタンプ)などを指していることが多く、用語の難しさをいつも感じていた。

また、リハビリテーションについては、第1次大戦後の傷痍軍人をどのように処遇するかかということから連邦政府に専門部署ができたことが始まりであり、次第に老人、身体障害者のリハビリテーションへと範囲が広まっていったとのことであった。1973年にリハビリテーションに関する法律が制定されており、その中には、建物を新築する場合には、身体障害者が出入りできるようにすること、雇用者は、身体障害者を差別してはならないこと、などが定められており、後年(1990年)、「障害を持つアメリカ人法 通称ADA法」が定められるに至る前段であったと考えてよいのではあるまいか。

この時は、ワシントンでは施設見学はしなかったが、79年、82年とこの地域で大小様々な施設を見学した。その中には、Forest HavenであるとかフィラデルフィアのWoodhaven Centerなどもあり、これらの施設始め各地において施設での処遇を巡る訴訟が起こされ、全米各地でのDe-InstitutionalizationとCommunity Based CareやMainstreamingなどの話題を聞いた。まさにノーマライゼーションという考え方が一層強く広まり、それまでの施設収容方式から地域ケア主体に流れが大きく変わっている時代であった。

この頃、ワシントンでの研修プログラム設定でお世話になっていたのが、日本国大使館の浅野史郎氏であった。後に厚生省の障害福祉課長を務められ、さらに宮城県知事として大活躍された方である。浅野氏は、ジョギング好きな方としても知られているが、ワシントンでの在任中は、ポトマック河畔を颯爽と走り回っておられたのではあるまいか。

Lecrture at Cuyahoga ARC 1977続いて、オハイオ州のクリーブランドを訪れた。中西部を代表する工業都市の一つであるが、障害者福祉という観点からも大変優れているところとして知られていた。 ここでは、グループホーム、大型施設、福祉工場、授産施設、訓練施設、養護学校、地域精神薄弱協会(ARC)、視覚障害者施設など多くの施設やサービスを見学した。研修団にとっては、肢体不自由児や精神薄弱児のためのそれぞれ養護学校などでの印象が強かったらしい。
報告書を見ると、教育とリハビリテーションが一体化して行われていることや、教員、OT(作業療法士)、PT(理学療法士)、ST(言語治療士)、教員助手など多彩な人材が配置されていること、専門家になるための養成課程も非常にしっかりしていることにうらやましさを覚えたとある。

一方、筆者にとっては、このクリーブランドで頂点に達した感のある専門用語で苦労した思いがある。 今は、すでに使われていない言葉やその後さらに改良された訓練方法もあるが、当時は盛んに使われていた。 苦し紛れに訳したものもあれば、教えてもらってそのまま使わせていただいた言葉もある。 今も思い出す言葉がたくさんある。その中でも特に苦労したのが次の二つであった。

Respite Care  : 「休養ケア」と訳した。重度障害児の在宅ケアでは、家族も休養が必要であり、そのためには、施設や大型のグループホームでは、いくつかのベッドを在宅の児童たちを受け入れるために準備しておくことが決められていた。当時、日本ではそのような仕組みは設けられていなかったので、説明してもなかなか理解してもらえず、「緊急一時保護」とどう違うのか、と幾度も質問されたことを覚えている。今では、この仕組みは「レスパイトケア」として日本でも普及してきている。 適当な訳語が見つからず、そのまま使われているらしい。

Advocacy :「代言または擁護」と訳した。クリーブランドのあるカヤホガ郡(Cuyahoga County)のARC(精神薄弱者福祉協会、日本で言えば育成会と似たような組織)で行われている精神薄弱者に対する理解を深めるための様々な啓発活動について説明があった。

ケネディ政権下以降、精神薄弱者に対する考え方は施設からコミュニティへ、と変わって来ている。具体的には、グループホーム、ワークショップ(授産施設)、アパート、幼児教育、そして、精神薄弱児の教育機会均等に関する連邦法の制定などがあるが、一般社会での理解をより高めるための活動が必要である。 そのための方法として、グループホームの生活などをインタビューしてテレビ放映する、ロータリークラブなどを通じて理解を高める、公共の場たとえば図書館、病院などに精神薄弱への理解を高めるためのパンフレットを置く、など様々な活動があり、機会あるごとに専門家や家族、ボランティアなどが積極的に活動していた。 このような活動を総称して、「Advocacy」と呼んでいた。 最初は意味が分からず、幾度か聞き直した。漠然とはわかっても適訳を思いつかず、辞書を引いて「代言」あるいは「擁護」としてその場を終えた。その日のプログラムを終えてホテルへ帰るバスの中で、先ほど言われたことをあれこれ追いながら、もう一度、Advocacyという言葉について団員各位に、「精神薄弱者に代わって、より強く理解してもらうよう呼びかけていくこと」を指しているのですが・・・と言い訳じみた補足説明をした。 この言葉も、今では、「アドボカシー」としてカタカナのままで使われている。とかく、外来語は難しい!

beds[1]この研修団は、最後にパシフィック州立病院(Pacific State Hospital)を見学した。ロサンジェルス中心街から約1時間のポモナ市にあり、西海岸では代表的な(?)大型施設であり、前身は1927年に建てられたPacific Colonyであった。カリフォルニア州法8026313[1]で、南カリフォルニア州に在住するFeeble-mindedness(精神薄弱の古い言い方)のある人たちを収容する施設であった。次第に収容者が増え、1946年には定員1512人に対して1900人となっていたとか。1953年に、それまでの「inmates=収容者」という表現から、障害者であって疾病のある人で治療を必要とする「patients=患者」をソーシャルワーカー、心理、親、看護実習生などからなる社会心理的なチームで対応するPacific State Hospital と名称も変わり、施設としての位置づけが変わっていった。そして、このころから、次第にこれまでの施設収容主体の処遇形態から発達障害を伴う人たちも普通の地域社会の中での居住することが望ましいという考え方が始まっていた。

研修団が訪れたのは「州立病院」時代であったが、広大な敷地に40ユニットの建物があり、1750名が入所しており、1650名のスタッフと200名のFoster Grand Parentsと呼ばれる介助要員(パート)で1対1の対応がおこなわれていた。障害の種類や度合、疾病などによってそれぞれのユニットに数十人ずつが起居していた。研修団は、そのうちの4棟を見学したが、「Acute Hospital and Receiving Unit=急性医療ユニット」は特に印象深かったとある。重度・重症の心身障害児、水頭症など26名を生命の危険と常に向き合う形で看護するユニットであった。

研修団が訪問して2年後の79年には、発達障害者の市民権と生涯を通じてのサービスを保証する州法、通称「ランターマン法」が制定された。併せて、地域ケアを進めるうえで、地域センターを地域の専門的資源として設置づけることも定められ、パシフィック州立病院もその一つになった。これを契機として、この施設は、F.D.ランターマン州立病院発達センターと名前も改められた。 その後、患者としてではなく、クライアント(利用者)として発達障害者個々に個別対応し、それぞれが地域で生活できるようにより発達を目指す形での対応をしていくことを理念として、1980年当時の州立病院から、さらに一歩進めたランターマン発達センターとして改められて現在に至っている。

LDCEntrance[1]ホームページを見ると、この施設を閉鎖することがカリフォルニア州議会で2010年に決められ、1994年当時の入所者数940名から、逐次在所者数が減少し、2014年6月25日段階では、47名になっている。コロニーとして開設された1927年から90年近くを経て、間もなくこの巨大施設は完全に閉鎖されようとしている。幾度も聞いてきた巨大施設のPhase downとはこういうことなのかと改めて認識している。余談であるが、この施設の閉鎖が公式に決められたのはシュワルツェネッガー州知事の時代であった。

ところで、77年の報告書を見直してみると、ニューヨークでの会食において前半の研修を終えての感想が語られていた。要約すると、「この研修で多くのことを学ぶことができたし、アメリカでもさらにいろいろ勉強できるであろう、帰国したら時間はかかってもそれを実践につなぎ、障害者福祉に新分野をひらきたい。 もう一つは、素晴らしい同志との出会いがあり、新知識の吸収と併せてこれからの職務に自覚と自信をもって臨みたい」との強い意思が示されていた。

また、研修を終わって、この研修団の団長Y氏の挨拶の中に、明治航空サービスの小野添乗員が、われわれ研修生もおよばないほどの熱意と専門的な立場をふまえて、適切な助言、指導をしてくれたので、研修は何の不安もなくスムーズに進み、大いに効果を上げることができたと、過分なお褒めの言葉を頂戴した。同行社員のH君と超多忙な日々を過ごしながら、複雑な視察研修旅行の準備と旅行手配、添乗と通訳までやっていたので単なる旅行業務よりもっと多くのことを学ぶことができたと思う。 そして、それを自らの経験と知識としても多くを得ることができたことがうれしい。

(資 料 : 上から順に)

カヤホガ郡精神薄弱者福祉協会(Cuyahoga County Association for Retarded Citizens

の当時の和訳名)での概要説明

Pacific ColonyからPacific State Hospitalに換わったころの入所者のベッド(資料借用)

Pacific State Hospital Police パシフィック州立病院 院内警察 (米国では、大学や大型の施設、公的組織などは自衛の警察を置くことが認められている) (資料借用)

ランターマン発達センター(Lanterman Developmental Center)  2010年に閉鎖が州議会で決定、’12年に公式閉鎖通達、2014年6月25日現在の在院者数 47名。(資料借用)

 

                       (2014年9月9日)

                               小 野   鎭