2014.09.17 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅㉒「もう一つの施設職員海外研修団に添乗して」

一期一会地球旅 22 もう一つの施設職員海外研修団に添乗して (その1) より個別対応を目指して

昭和49年(74年)11月に、「社会福祉関係収容施設職員海外派遣研修団」の旅行団に添乗した。 こちらも、団体名が長いので一度聞いても容易には覚えきらない。そこで、TMG (Tokyo Metropolitan Government)Welfare Study Teamと呼ばせていただいていた。こちらも忘れられない思い出がたくさんある。 主催は、東京都、当時の民生局と衛生局の共管であるが実際の事務取扱は前者の担当部署であった。実は、前年度(73年)に初めて実施された事業であるが、その計画を知ったときは、すでに大手の旅行代理店が業務を進めていた。この時代は、「旅行代理店」が一般的な呼称であった。 73年は、前回まで書き綴っていた社会福祉調査会の研修団を初めて担当させていただいた年であるが、福祉関係の海外視察や研修では明治航空サービスの存在が少しずつ知られるようになってきていた。とは言いながら、今回(東京都)もそうであるが、第1回目の取り扱いはいずれも大手の代理店、2回目は共にわが社がご下命いただいている。行政関係や公的性格の強い法人の主催になるこの種の派遣事業の旅行取扱業務は信頼度や営業力などからやはり大手が強かったのは悔しいけれども事実であった。彼らは、いわば総合旅行会社であり、国内旅行(Domestic)、海外旅行(Out-bound)、外人旅行(In-bound)いずれも強く、規模と言い売上高と言い、彼らとわが社では月とスッポンほどの違いがあった。  しかしながら、わが社が大手に伍しているものもあった。海外のうち、各種専門視察、通常、Technical Visits(T/V)と呼ばれていたが、福祉や医療、教育、農協関係や都市・国土計画などに於いては、わが社の存在は次第に大きくなってきていた。 大手の担当者とも顔を合わせることもあった。当時は、中央官庁や自治体、法人などの事務担当部署にしばしば御用聞きに伺い、名刺を置いてくるのがセールスの一つの形であった。勿論、飛び込みもあるが目に見えない旅行商品、しかも一人当たり数十万円というような高額商品を売るにあたっては名の通った大手代理店ならいざ知らず、小さな会社としては、やはりそれなりのルートを経て担当部署や役員にアプローチすることが通例であった。いかにして有用なパイプやコンタクト先へ近づいていくかが大きな要素であった。筆者が、「より多くの方と出会っておくことがいかに大切であるか」ということを意識したのはこの時代であった。一昔前までは、ダイレクトメールがよく送られてきた。 今は見ず知らずの会社や担当者からEメールで新商品や企画の話が送られてくるが、当時は足で稼ぐ、そして、口コミでアプローチということが大変尊く、大切であった。現代にあっても、見ず知らずの人からいきなり送り付けられてくる宣伝メールにはいい感じを持ち得ない。すっかり時代遅れであることはよく承知している。しかしながら、いかにしてたくさんの人を知ることが大切であるか、今も「人財」であることを信じて疑わない。 前置きはこのくらいにして、74年のこの研修団の業務受注と実際の運営について述べさせていただこう。研修団は、団員50名、事務局(都)4名そして添乗員3名から成る総勢57名であった。専門分野は、当時の表現で、精神薄弱児(者)、特別養護老人ホーム、救護・身体障害者、肢体不自由児、重症心身障害児関係からなる5班、前3グループが民生局、後の2グループが衛生局の所管であった。視察研修は、専門分野ごとに参考になるところを手配することが条件であった。当然、通訳も班ごとに必要であり5人を準備しなければならない。基本的な旅行手配はもとより、視察研修のための希望事項を充たすとともに視察先への円滑な交通手段も確保しなければならない。どうやら、前年は、必ずしも見学先は十分には確保されず、第1回目としては、仕方が無かったような評判も聞いていた。 そこで、今回の研修団(の取り扱い)を受注するためには、旅行計画書の作成は当然として、視察研修プログラムをどのように計画し、それを実際に組み立てることができるかどうかが大きな要素であろうと判断し、そのための手順を整えた。 そのためには、5種類の施設の利用者の特性を知ること、施設の役割やプログラムを知ること、少なくとも英文でその内容をきちんと表現することなどが必要であった。 また、最初に行政機関または関係団体による概要解説を準備し、その上で5班に分かれての施設見学をしていただくこととした。これらのプログラムの手配にあたっては、各国の行政機関などに依頼することがとるべき道であるが、数年前に国際児童福祉連合50周年記念会議の旅行を担当させていただいていた実績から国際社協の協力を仰げることになった。また、同じときに都の児童部長にも知遇をいただいていたことも大きな幸運であったと思う。 もう一つは、5班に分かれての施設見学に必要な交通手段の確保である。安全であり、安心できることは当然であるが、交通費を抑えることが予算上からも必須であった。貸切バスなどの専用車は団全体で1台だけ使い、そのあとは、いくつかのグループで同一方向にある訪問先などを効率的に回ることで、この車は役割を果たす。残りは、乗合バスや地下鉄、郊外鉄道などの公共交通機関で移動し、他に手段が無いところはタクシーを使うことを提案した。添乗員は3名いるので3つの班には付くとして、添乗員不在の班は通訳者に送迎も含めて頼むこととした。公共交通機関を使うことは、費用節減を図ることが第一の目的であるが、一方では、その町の市民生活の一端を垣間見ることができるし、小回りが利く。時間的にも流動性があり自由が効くなどの利点もあることを強調した。 こうして、74年(昭和49年度)の研修事業を受注することができた。11月10日からの15日間、
アムステルダム、コペンハーゲン、ハイデルベルク、パリ、ロンドンをまわり、各地では、最初に概要説明を受け、それに続いてほぼ希望通り5班に分かれての施設見学が行われた。しかしながら、施設の種類や障害者等の区分とそれに伴うサービスの種類は、必ずしも各国のそれとは一致しないことも多かった。それは、歴史的な背景や文化の違い、法体系や医療福祉の仕組みが国ごとに違うこともあり、それは仕方がないことであり、その違いを知ることもまた価値があったと思われる。言いかえれば、違いや目新しさがあるからこそ、研修視察が行われる必要性があったといえよう。5班編成での公共交通機関の利用は好評であった。夕食時やフリータイム、移動中のバスの中などでグループごとの体験や失敗談、珍談奇談も披露され、大笑いのシーンもあった。
その後、発達障害者などの療育や教育についてのプログラムやサービスの基本的な考え方の中にIEP(Individual Education Plan=個別教育計画または個人訓練計画)ということばをよく聞いた。これは、旅行においてもあてはまることを感じるようになった。団体としての良さは大いに利用しながらも、細部では個別や少人数ごとに対応することの大切さであり、それが個々の満足度をより高めることにつながっていくということ。一口に○○障害といってもその内実は個人々々によって違うということはよく言われる言葉である。 添乗員としては、出発前に訪問先の住所を調べてどうすれば効率的に動くことができるか、スケジュールの調整なども大きな課題であった。自室には今も世界各地の都市地図などが数百部ある。古びたものが多いが、開いてみるとあちこちに書き込みがあったり、赤く丸で囲んだ地名などがある。今のようにGoogle Mapや「地球の歩き方」などはない昔のことである。そんなとき、Michelinの緑色の表紙のガイドブックやアメリカのMobil Guideは強い味方であった。毎夜、ホテルの部屋に座り込んで視察プログラム(
AgendaまたはStudy Program)をにらみながら、眠い目をこすって地図に印をつけて、明日の動きに備えたことを思い出す。今もこの趣向は変わらない。訪れる度に、古い地図や案内書を持参して、現地に着くたびに新しいものを求めて再確認する。町や地域が大きく変わって、複雑になっていることもあれば、かつての賑わいがすっかり変わってしまったところもある。オランダの干拓地のように新たな土地が広がっていることもあるし、古くからある町が今も憎いほど美しく保たれているところもたくさんある。 毎回、旅行先ごとに地図をじっくり「読んだ」おかげで今もいろいろな場所や風景、交通機関を思い出す。 私にとって、 地図のない旅は、チーズのないフランス料理のようなものかもしれない。 さて、49年度の研修団は当初の計画通り各地で研修し、多くのことを学ばれて帰国されたが、実は、ひとつだけ大きな失敗があった。 これについては、次号で紹介させていただこう。 (資料 上から順に) 昭和49年度 社会福祉関係収容施設職員海外派遣研修団 携行旅程 表紙 ストックホルム市内地図(行くたびに買い替えていた) ミシュラン 国または地域別案内ガイドブック(英文) Mobil Travel Guide (米国:毎年刊行されているので数年ごとに買い替えた) (2014/9/15) 小 野  鎭