2014.09.30 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅㉔「もう一つの施設職員海外研修団に添乗して」

一期一会地球旅 24

もう一つの施設職員海外研修団に添乗して (その3) 

うれしいハプニング!

もう一つの施設職員海外研修団は、昭和50年度、さらに51年度、その後もたびたびご下命いただくことができた。平成の時代になってもしばらくはご利用いただいていたと思う。若手が育ってきたこともあって、筆者が直接担当したわけではないが、社としてはとてもありがたいお客様であった。この中で、筆者が添乗まですべてお供した数回のうち、昭和50年度、57年度(1975&82年)が特に印象深く、ぜひ紹介させていただきたい。 勿論、毎回の旅行業務はすんなりと受注できたということではなく、地方自治体の主催であり、年を追うごとに受注合戦は熾烈を極めていった。研修計画の中身だけでなく、旅行内容と当然のことながら旅行代金の額がある。以前にも書いたが、大手の代理店は、販売、仕入れ共にわが社とは比較にならないほどの規模であった。当時、航空運賃は航空会社各社ともいわば協定の金額であったので、表向きは同じであったが、実際には大手は多分、中小よりはもっと安く仕入れていたと思われる。また、現地手配(Land Operator)の費用も安かったかもしれない。
当社は、必然的に金額よりも中身で勝負、というのが毎回の姿勢であった。ひたすらT/V(Technical Visits)に強い会社として、研修プログラムの案、これまでの実績、旅行そのものと添乗経験が豊富であることから現地事情によく通じた会社として、質の高さを強調し、それでも旅行代金は極力抑えて何とか仕事をいただくことに力を入れていた。 目に見えない旅行商品とサービスの質を説明することは難しかったが、過去の実績や今のお得意様、研修プログラム案などを説明して信用を得ることにより懸命に力を入れてきた。この研修団単体としては、仕事内容も複雑かつ高度な知識や折衝を必要とすることと作業には多くの時間がかかる。それに見合う利益が期待できたかというとそれ自体は難しかった。今日風に言えば、かなり非効率な仕事であったが、東京都の直轄事業をいただいていること、研修プログラムを担当することで、さらに幅が広がっていくこと、学びそのものが多いこと、など多くの利点があった。この業務を担当しているときは、旅行業なのかコンサルタント業務であるのかわからないところも多々あった。しかしながら、後述するようにこの仕事を担当することで多くの出会いやそこからの広がりなど大きなメリットが生まれたことを思うと「労多くして、さらに益多し」であった。 さて、随分長い前置きになったので、そろそろ本論に入ろう。昭和50年度(75年)の団員のお一人に東京西部のある市の精神薄弱児(当時の表現)通所施設の職員(看護師)がおられた。この時の研修はロンドン、パリ、ケルン、ストックホルム、コペンハーゲンで集中的に行われており、特に北欧では、ノーマライゼーション理念が幅広く普及しており、団員も多くの事象に刺激を受けておられたことが思い出される。この団でも、精神薄弱関係のメンバーが多く、筆者がこのグループを受け持つことが多かったが、個人的にもこの分野に興味を強く覚えるようになっていた。加えて、現地通訳が専門語で苦労していることがあると、横から助言して、しばしば重宝がられることもあった。実は、前年49年度は初めてこの研修事業の取扱を受注したのであるが、前回述べたような失態を演じていた。従って、続けて受注出来るかどうかはいささか不安なところもあったが、それはお目こぼしいただけたのかもしれない。継続しての受注であったので前回以上に真剣に務めたことを覚えている。 帰国後間もなく行われた報告会で、先に述べた団員氏からうれしい話を耳打ちされた。先の研修旅行から戻って勤務先である施設に研修報告をしたところ、自分の上司である部長(小児精神医)がアメリカへの旅行計画を立案しなければならないので、もしかすると、旅行相談があるかもしれない、とのことであった。どうやら、団員氏は今回の旅行のこと、とくに施設見学や研修プログラムの中身などについて、とても良くやっていただいたと嬉しい報告をされたらしい。1975年のクリスマス・プレゼントとも呼びたい幸運であった。 ご相談をお受けするのを待つまでもなく、こちらから早速連絡をさせていただいた。団員氏の上司の部長 高橋彰彦氏は、東京都心身障害者福祉センターの医師も兼務しておられ、一方で日本精神薄弱研究協会(当時の名称 JASSMD=現日本発達障害学会)の事務局長も務めておられた。海外、特に欧米の研究者などとの親交もあり、様々なルートもたくさんお持ちの国際通であった。早速、お話しを伺ったところ、来年(1976年)夏、ワシントンDCで行われる国際精神薄弱研究会議(IASSMD)参加希望者が20名近くあり、そのための旅行計画、国際会議参加申し込み、会議前後の視察、会議中の各種業務などを行うことがお取り扱いの条件であった。 正直なところ、国際会議のお取り扱いは未経験であったし、予定されている旅行の時期は翌年の8月中旬のピーク時期であり、加えて1976年は米国独立200周年にあたり首都ワシントンDCでは夏の間は特に大型の催しがたくさんありホテル事情その他旅行環境は大変厳しいものが予想されていた。そこで、内心では、ちょっとむつかしいかなと思った。 すでに、ある大手の代理店に相談されており、その会社はそれなりの実績もあるらしい。 とはいいながらも、興味があれば、早急に旅行計画書(見積書)を出してほしいとのことであった。 正月もろくに休まず夢中で準備して、新年早々に計画書を作り上げた。その中には、社会福祉調査会始め、医療関係なども含めてそれまでに蓄積していた欧米、特に米加の施設や病院関係情報、ノーマライゼーション、メインストリーミング、インテグレーション、アドヴォカシーなど覚えたての専門語をあちこちに並べ立てて自社の実績を強調した。加えて、厚かましくも簡単な通訳ならできます、などと虚勢も張った。後から考えてみると、恰好だけ取り繕ったお恥ずかしい旅行計画書であり、見積書であったと思う。しかしながら、うれしいことに結果としては、仕事をいただくことができた。
こうして、1976年IASSMD会議ご参加のお客様の旅行に臨んだ。国際会議に関する一連の業務、大学や施設、会議の特別分科会での通訳なども併せて担当させていただいた。お粗末極まりない通訳ではあったが、この時の経験がいろいろな意味でその後の筆者の生き方にも大きく影響してきたと思う。また、この時のご参加各位にはその後も格別のご愛顧をいただき、幅広く著名な方々へもご紹介くださった。多くのことを得たこのIASSMD会議参加者のご旅行にはそれ自体多くの特筆すべきことがあり、別の機会に改めて書くこととしたい。今、思っても画期的なことであり、うれしいハプニングであった。 ところで、高橋先生をご紹介くださった件の団員氏は、いまは引退されて郷里の新潟県にお住いで今も年賀状を交換させていただいている。あれから間もなく40年が過ぎる。 (資料 上から順に) オフィスにて 70年代前半のころ。 国際精神薄弱研究協会 第4回国際会議参加と米国の精神薄弱研究事情視察旅行(1976)

                           (2014/09/29)

                             小野 鎭